綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

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性善説について

日本は旧幕府時代から性善説が国民感情として支配的であったと考えるのが、正しいでしょう。性善説に立つ儒教や仏教が庶民に行き渡っていたと考えられます。性善説について、ドングリと樫の木のれいでいいますと、ここに一個のどんぐりが有るとします。このドングリの生き甲斐、つまり本望はなんでしょうか。ドングリのいきがいは、ころころ転がって池に落ちてドジョウにみまもられながら腐ってしまうことでもなければ、鳥か何かにに食べられてしまうことでもないでしょう。やはり豊穣な土地に落ちて、立派な樫の木に成ることではないでしょうか。ドングリはしかるべき条件に有ると樫の木に成長します。ならば、ドングリの立場に立ってその本望を推測すると、ドングリの中に潜在している樫の木に成る性質が顕在化し、実現されることだと思うのです。自己実現を目指すなら、人間の内なる潜在力を引き出すことであり、良い性質のものでなければなりません。性善説に立脚しなければ、人間の本性を引き出す必要は有りませんね。性悪説では困るわけです。しかし、みなさんはどの立場で考えられるのでしょうか。しかし、現代の世相を観ていると、人間の本性は悪なりとおもう出来事があまりにも多く有りすぎますね。悲しきことです。
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by ayabemorinaga | 2008-11-30 11:53 | Comments(0)

性善説か性悪説か

自分とは何かと言うことを考えるとき、人間の本性とはそもそも何であるかを考える必要が出てきます。このとき昔からよく引き合いに出されるのが、性善説と性悪説です。このどちらに自分の考え方の基本に置くかで、人生は変わってくると思われます。人間は頭で考えて、その指令で動く人間です。ですから考え方が変われば行動が変わるという特性があります。行動が変わることは当然の帰結として、結果が変わると言うことです。結果が変わると言うことは、人生の軌跡が変わると言うことです。ですからいい生き方をするためには、その基本となる考え方を正しくして、自らのフィロソフィ-にまで高めることが必要です。では、性悪説と性善説がありますが、大切なことは、どちらがいい人生が送れる考え方かという視点を忘れてはいけないと思います。みなさんは、どちらの説を採られますか。私は性善説を採りたいとえ思います。なぜかは、次回以降に書き込みます。ブログ再開よろしく。
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by ayabemorinaga | 2008-11-29 12:05 | その他 | Comments(0)

上善如水

最上の善は水のようなものである。水はあらゆるものに恵みを与えながら、どんな器にも地形にも自在に従う。人々が見下しがちな低いところにも流れていき、そこに居る。態度はひくいのがいい。心は深いほうがいい。人との交わりは仁有ることを善しとし、言葉は信あるを善しとする。こうすれば自然と争いから遠ざかり誤りもなくなるから、道にかなう。と老子も言っている。元福田赳夫総理も上善如水を座右の銘として、人に書を頼まれるとかかれていたとか。水の味を無味の味という。と言ったことを考えれば、言葉の奥は限りなく深い、故に、言葉遣いもまた限りなく難しいものだ。
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by ayabemorinaga | 2008-11-17 07:21 | その他 | Comments(0)

感動

感動をして心に栄養を与えてほしい。自分自身の損得勘定を考えてソロバンをはじいたらだめですよ。   人生という本は最高の本である。  人は好き勝手にこれを閉じたり、また、開いたりすることができない。   魅力あるペ-ジも二度と読むことはできぬ。  運命のペ-ジはおのずとめくられてゆき   恋いをしているペ-ジへ戻りたいと思っても   死を迎えたペ-ジがすでに指の下にある。そうそう、石上露子の短歌に「惜しめども今日を限りの春の日の 夕暮れとさえなりにけるかも」後期高齢者とも成れば、この感じひしひしと身に迫ってきますよね。そんな感じをもっのは私だけでしょうか。 近頃はチョトしたシ-ンにも涙することが多い。涙腺がゆるんだんだろうか。          
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by ayabemorinaga | 2008-11-15 09:35 | その他 | Comments(1)

人を見る目

人を見る目を養い人使いにたけるには、苦労をしなければならない。人使いの巧稚は、人間の機微といったものに通じているかどうかである。よく比べられるのが、信長、秀吉、家康、であるが、上杉鷹山も苦労している。高鍋藩の部屋住まいからいきなり奥州の米沢藩の養子となった。言ってみれば、見知らぬ土地に落下傘でおりたようなものである。それだけに周りへの気配りは並大抵のものでなかった。だが、その苦労が人使いの巧みさとなって、鷹山の財産となった。さらに立派な人物を登用したカラこそ藩政改革をしっかりとやることができたのだ。また、30才には隠居をしている。人を見る目を養うには苦労がつきものである。しかし、後期高齢者と言われる歳にもなれば、そういった気配り目配りに疲れ切って、ほうぼうのていで逃げ出したくなる。つまらぬ事にこだわったり、いらぬ気苦労をする事がおおいい。自分ではしっかりとやれていると思うことが他人から観ると落ち度が多くある。そのようなことを、他人から指摘されると素直に反省をすることもなく、変な意地を張ったりして多くの人に迷惑をかけている。そのように思うならばさっさと身を引けばよいではないかと言われそうですが。
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by ayabemorinaga | 2008-11-14 08:54 | その他 | Comments(1)

代表的な日本人

代表的な日本人(偉人)として五名の人の名を挙げよと言われたら、みなさん方は誰を上げられますか。西郷隆盛、上杉鷹山、二宮尊徳、中江藤樹、日蓮であると、内村鑑三氏は言っておる。さらに内村鑑三氏は、この五人に共通するのは「民衆愛」で有ると、この五人の伝記を読んでもらえばわかりますが、心のある勤労者である。だから、勤労で得た富も、他人のために差し出す美しい精神を持っているのです。と言っております。偉人伝を読むということが、現代にはほとんどありませんが、偉人伝を是非読んでもらいたいものだ。そして、自分の生き方のバックボ-ンとしていただきたい。
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by ayabemorinaga | 2008-11-13 09:48 | Comments(1)

恩義

人間ながい一生の間には、人に頼るときと、(人にお願いする立場で有ればホントにわらにもすがる思いで頼んでいることを肝に銘じてほしいものだ。しかし必ずしも頼まれたことがうまくいくとは限らないが。)頼られるときがある。頼よられる立場になれば、誠意を持って一生懸命努力するのが人の道ではないか。人生恩義を感じたときの心を忘れないでいたいものですね。ところが、人の心も移ろいやすく恩義は忘れても人を恨むだ時の気持ちは忘れることができない。情けないことであるがそれが現実というものかも。
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by ayabemorinaga | 2008-11-12 08:59 | その他 | Comments(0)

逆境

どんな境遇にあっても、それを甘んじて受け入れ、ただ敬の一字で一貫したいものである。逆境のとき、不遇のときを真っ正面から受け止め、克服した人は、言いようのない幅が出きる。人を受け入れる奥行きが増したとも言える。それは古今東西、いずこにいっても真理である。アメリカの詩人ホイットマンもこういう名言を残している。「寒さに震えた者ほど、太陽を温かく感じる。人生の悩みをくぐった者ほど、生命の尊さを知る」と。逆境の時をいかにして耐えるのか、なかなか難しい問題である。人は時には神仏に願い事を祈願するがそれが叶えられないと、神も佛もあるものかと言った境地に至り自暴自棄になる者である。強いようで弱いのは人の心である.不遇のときこそ、ただただ敬の心で人に接することだ。
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by ayabemorinaga | 2008-11-11 09:07 | その他 | Comments(0)

廉恥心

人間と動物との根本的相違は二つある。それは人間には尊敬する気持ちと恥を知る心とがあることである。裏返して言えば、この二つうち、一つでも失ったら人間失格である。ことに日本では古来から廉恥ということがやかましく言われている。廉恥の廉は無私である。自分のことよりいつも社会全体のことを念頭に置いて行動する事である。この廉がわかると、利己的な、反社会的な生き方を恥ずかしく思うようになる。コレが恥じを知ると言うことである。
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by ayabemorinaga | 2008-11-10 14:11 | その他 | Comments(0)

しびれる。

「人間はホンモノにしびれなければならない」「何にしびれるかによって、その人は決まる」「しびれる」とは俗な言葉であるが、以前に述べた「参る」「感激」と言ったものに近いと思う。人間何かにしびれなければ成長・進化はない。では、そのように言われるあなたは何にしびれているのですか。芭蕉の生き方にしびれています。と言えば、みなさんは何と思われるでしょうか。そりゃ-嘘だと。
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by ayabemorinaga | 2008-11-09 19:24 | その他 | Comments(0)