綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

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無伐善

無伐善、無施労、善に伐ることなし。労を施すことなかれ。と読みいずれも論語にある。自らの功績を誇ることなく、苦労なことは自らおこない、人に押し付けないようにしたい。という意味であります。人間もよほど練れていないと実践することは難しいだろう。やれるかな、やれないだろう。な。事ほどこのことは困難なことであろう。しかし、困難なことに挑戦して生きていくのがこの世の掟である。
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by ayabemorinaga | 2009-03-31 17:21 | その他 | Comments(0)

金の問題

金のもらい方にも人間が出てくる。分類すると、大きな金も小さな金も筋の通らぬ金は一切、手に触れないのが第一等の人物。大きな金はとっても小さな金は絶対取らないのが第二等の人物。大きな金も小さな金も金と名がつくものなら何でも飛びつくのが第三等の人物。小さな金にしか手が出せぬのが最低の第四等の人物。だとか、さしづめ今話題になっている人はどの程度の人物か。論語でも、金銭欲というものは年をとればとるほど強くなるから、よほど注意しなければならないと戒めている。また、壮年になると自己主張が強くなり、他人といさかいが、ともすれば激化しがちになる。この点を注意するのが、壮年の戒めであろう。人間は誰でも金に困らぬときは善人である。金に不自由しないとき、他人の金に手をつけるものは少ない。問題は困ったときに、なおかつ他人のものに手を出さぬのが大事である。これが本当の善人である。金の与え方では、一番嫌がられるのが、チップを出しそうなそぶりをしながら、結局出さない人物。だとか。
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by ayabemorinaga | 2009-03-27 14:33 | その他 | Comments(0)

才の人徳の人

国に功労あるものには賞を与えよ。功労があったからといって地位を与えてはならない。地位を与えるには、おのずとその地位にふさわしい見識がなければならない。そこのところを間違えて見識なき者に地位を与えると、それは国家崩壊の原因になる。---西郷隆盛
原典は西郷南洲遺訓から、経営の神様松下幸之助氏が現代風にかきあらためられたものです。松下氏はこのことを次のように解説している。あの人は会社を儲けさせた。だから重役にしょう。という発想は間違っている。その場合は、賞つまり、金品のことだから、金一封とか、ボーナスあるいは昇給によって酬いる。そして、重役に抜擢するには、これがうちの重役です。と部下が誇れるような見識ある人物を持ってくる。確かにいかに仕事が切れても、いかに能力があっても、だからといつて地位を与えて、人を支配させてはならない人間がいる。もし、そういった人物を間違えて上にすえると、必ずトラブルを起こしてしまう。一方第一線にいるときに、これといった派手な存在ではないが、その地位を与えると、おのずとその部署が治まってしまう人物がいる。いうなれば、才の人、徳の人との使い分けである。もちろん上にたつ以上は、才、徳との両方を兼備しているに越したことはない。だが、才の人を採るか、徳の人を採るか二者択一を迫られたときは躊躇なく徳の人を採る。と松下幸之助氏は言っている。春は人事の季節悲喜こもごも到来である。人事担当者の識見が問われる真剣勝負の季節だ。お手並み拝見。
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by ayabemorinaga | 2009-03-26 10:16 | その他 | Comments(0)

中庸の美徳

孔子も、過ぎたるは及ばざるが如しと語っているが、こういう過不足のない、バランスのとれた状態を、中国の古い言葉で、中庸の美徳といっている。自分にも他人にもこまやかな配慮を働かせ、何事にも行き届いている人物がいる。かと思えば、一方には、自分も他人もいたわらず、何事にも淡白な態度をとる人物がいる。行過ぎてもいけないし、あっさりしすぎてもいけない。立派な人物は、バランスのとれた態度を貫くべきだ。清廉であって、しかも包容力がある.思いやりがあって、しかも決断力に富んでいる。洞察力があって、しかもアラ探しはしない。純粋であって、しかもかげきに走らない。こういう人物こそ蜜を使っても甘すぎず、塩を使っても辛すぎないと言い、理想のあり方に近い。極端に走らずバランスの取れたあり方が理想だというそうですが、凡人には至難の業か。いやいやそのようなあり方に努力を傾注するのが、凡人の勤めであり、生き方なのかも知れない。
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by ayabemorinaga | 2009-03-23 16:48 | その他 | Comments(1)

陰徳

人は必ず、知られぬところで徳を積むべきである。どんな立派なことをしても、人に知られるようにやったら、それは徳にならぬ。人を助けるにも、わざわざ、そのことが相手にわかるようにして人を助けるのを陰徳とは言わない。徳を積むということは両刃の剣のようなものである。それはいいことには相違ないが、いいこと悪いことには必ず執念が付きまとうし、悪いことをすれば悪いことをしたという執念が付きまとう。いや、むしろ、悪いことをしたな、という執念のは、まだ、これからは悪いことをしてはいけないな、いう方向に向いていく可能性があるから、まだいい。ところがいいことをしたときには、自分はいいことをしたのだという自己満足を抱くと、これがなかなか抜けない。どうしても人に知らせたいと思う。そこに危険なわながある。いいことをするときは恥ずかしいと思いながらせよ。、それがナイト相手に負担を負わせることになる。だからこそ、陰徳というのだ。しかし議員である限り陰徳を実践できる自信はない。議員はいつもこんなかっどうをしています。みんなのためにこんなにがんばっていますと自己宣伝をしなければ、皆さんにわかってもらえない哀しいサガを背負っていますから。北海道の黒畑様へ、どこの鹿島神社に奉納されている額ですかというお尋ねですが、鬼一法眼が武の神である鹿島神社に奉納した額にかかれいるということで、鹿島神社は全国にいたるところにあり、どこの鹿島神社かは私もわかりません。
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by ayabemorinaga | 2009-03-22 09:00 | その他 | Comments(0)

御仏前

不祝儀袋には、御仏前、御霊前の二種類ありますが、どのように使い分けるのか私にはわかりませんでした。49日までが御霊前で、49日以後は御仏前だそうです。これは忌ごもりの事を言っているのだそうです。つまり、人は死んでも49日まではまだ浄土に行っていない。成仏せずに霊が宙をさ迷っているのです。六道輪廻をさ迷っているのかも知れません。だから、この間はご霊前を使う。そして、49日立てば弔いあげて、だいたい成仏して浄土に行く。だからこの日以降はご仏前となるそうです。もっともこれは京都のお話で地方によっては別の使い分けをしているかも知れませんが。仏教の作法はなかなか難しいでする。私などはずいぶん常識はずれな行いをしてきたと、反省しきりです。
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by ayabemorinaga | 2009-03-21 15:36 | その他 | Comments(0)

怨恨

怨恨という言葉があります、新聞紙上で怨恨による殺人と使われていることがありますが、日本語では怨も恨も同じように、うらみ、を意味し、日本人は両者を区別しません。しかし、韓国では怨と恨は本質的に違う性格を持ったうらみであるといっております。結論だけ言うと、怨は外部に向けて発せられるうらみであり、したがって、外部的な力や時間の経過によって解消することが可能であります。それにたいして、恨すなわち恨は内部に積み重ねられていく恨みであり簡単に消え去ることのないうらみの心です。たとえて言えば、怨が燃え上がる火のような恨みであるとすれば、恨は青白く燃え続ける雪のように冷たい恨みであり、人間の内部にいつまでも積み重ねられていって、ついに消えることのない恨みであります。うらみは人間の心のうごきであり、表面には現れないが、それが暴発すれば殺人にいたる。激しい心の怒りである。殺人にはいたらないとしても、わら人形に五寸釘を打って人を呪う人の顔はどのようなものなのだろうか。おそらくこの世の人の顔ではないだろう。あまり人から怨みをかわない生き方をしたいものである。しかし、現代の若者は少しでも注意をすれば、たとえ自分か゛悪いとわかっていても、むしろ逆恨みをすることのほうが多いように感じるが、これは老人の僻みか。
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by ayabemorinaga | 2009-03-20 12:04 | その他 | Comments(0)

日本人の感情処理

演歌には雨が主題としてよく登場します。古賀メロディ-の、まぼろしの影を慕いて、雨の日に、をはじめとして八代亜紀の、雨雨ふれふれ、もっとふれ、私のいい人連れて来い。にいたるまで雨は演歌と切っても切れない関係を結んできました。ついでに付け加えれば,アカシアの、雨に打たれて、このまま死んでしまいたい、も忘れがたいし、そして美空ひはりもまた、あの悲しき口笛の中で,丘のホテルの,赤い灯も、胸のあかりも、消えるころ、みなと小雨が、降るように、と歌っています。自分の気持ちを雨に託してうたう。別れの嘆きを口に出せない恨みの感情を、雨に打たれ小雨が降るのを見ながら歌う。自分の鬱屈した感情を相手に直接ぶっけるのでなく、どこか自虐的で、死んでしまいたいと思いながら、その鬱々とした感情を少しずつ滲み出しながら、しかし、どこかで甘い気分を漂わせている。演歌は、日本人のこのような感情の処理の仕方を実にうまく表現していると思います。ゆえに演歌は多くの日本人に歌い継がれるのでしょう。
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by ayabemorinaga | 2009-03-18 18:40 | その他 | Comments(0)

ころし文句

ころし文句は懐剣である。だから、それがさび付いた陳腐なナイフだったり、やたらと人前で飛び出したがるナイフだったら興ざめである。つまり、無闇に何度も使ってはいけないということである。会話の中に何食わぬ顔をして、さらりと挿入することによって、ころし文句は生きてくる、女性から言われて一番ゾックとするような、ころし文句を紹介しよう。わたくしが思い切ろうとすれば、あなたが未練をだすし、あなたがあきらめようとなされば、私があきらめ切れないし,いったい、どうすればいいの。いつまでも愛してくださいとはいわないわ、でもね、一生わすれないような美しい面影をのこして別れたいの。せめて別れる時だけでも。
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by ayabemorinaga | 2009-03-17 18:17 | その他 | Comments(0)

冷たい情熱

情熱には熱い情熱とつめたい情熱がある。水を構成する原子は、沸騰するときばかりでなく、凝結する時にも激しく動くのだ。冷たいままで、いやより冷たくなりながらである。これを女性の側から見ると、熱く燃え上がる情熱は理解しやすいし、帰結もおおよその見当はつくが、冷たい情熱となると勝手が違って調子が合わない。合わないと逆にその情熱を捉えようとしてあせり、激しくのめりこんでしまうそうです。冷たい情熱を持った男になれるかな。
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by ayabemorinaga | 2009-03-16 20:04 | その他 | Comments(0)