綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

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家庭教育パ-ト2

高等学校では、バイク乗車の禁止をしている学校が多いのですか゛高校生ともなればバイクに乗りたいらしく、家庭での親子のけんかが絶えないようです、。親としては、学校の決りのとおりバイクは乗ったらいけないので、バイクは買わない、子供はバイク、買えといった言い争いのようですか゛、けんかの果てに,もののぶつけ合い、買ってくれなければ家に火をつけるぞ、と言い切る子供、毎日家庭で地獄のような言い争いの苦しみを先生方はご存知か、といった手紙をもらったことがありますが、(家庭でご苦労に心が痛む気持がしましたが)やはり家庭で子供にしっかりと我慢をすることを教えなかった結果ではないのでしょうか。小さいときは、子供のいうとおり何でも買い与えて甘やかして育てしまった結果、子供は心のブレ-キが利かない子供育ってしまった。つまり我慢をすることが出来ない子供になったのでしょう。子供が小さいときは、ものを買うにも金額が少なくてすみますが、バイク、自動車などとなれば、金額がかさみおいそれと買うことは出来ません。おもちゃ売り場などで親が、子供がねだって泣き叫んでいる手をひっぱっているような光景は、ほとんど見られなくなりました。親子のスキンシップと我慢強さをしっかりと家庭教育の中で体得させていただきないものです。
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by ayabemorinaga | 2009-05-30 08:36 | その他 | Comments(0)

話術

全国議長会総会が日比谷公会堂で開催された。来賓あいさつで鳩山総務大臣が、スピーチの締めくくりに、私は法務大臣の時には、死刑執行を多く行ったために、死神といわれた。今は総務大臣として、地方分権の守護神として頑張りたいといわれた。(このような表現の方法には意見のあるところかと思いますが)このような人の心に残る表現方法はさすがだと感心しました。政治家たるもの人の心にバイブレ-ションを起こされるような話術を身に着けなければならないと思いますか゛なかなかうまく心に染みとおるような話が出来ません。でも、そういった姿勢と努力をする態度は失いたくないものだ。
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by ayabemorinaga | 2009-05-28 17:01 | その他 | Comments(0)

褒章

教育の場には褒章制度がない。つまり若者を認める機会がない。スポーツには表彰制度があり、個人なり団体で表彰される制度はある。が教育の場において、若者の行為を取り上げて表彰する機会はほとんど皆無といえるのではないか。戦前には学力優秀の者には優等生、一日も休まず登校したものには皆勤賞、何事にも一生懸命努力した者には努力賞として賞状が学期末に全校生徒の前で褒章されることがあった。その功罪については、ご意見はあると思いますか゛、若者を認めて褒章する制度(たとえば善行賞など)を導入すべきではないか。わが国には叙勲制度があるが、それはこのような言い方は失礼かもしれませんが、ほとんど老人といわれる年齢の人が多い。若者を認めるような褒章制度の導入することが、とりもなおさず、人としての基本的欲求である社会で認められ所属する欲求を満たすことになる。褒章制度の導入は若者に夢と希望と達成感と同時に社会に貢献していることを実感するいい機会になるのではないか。
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by ayabemorinaga | 2009-05-26 09:03 | その他 | Comments(0)

教育とは

教育とは、人から何かを引き出すことであって、何かを詰め込むことではない。学ぶとは誠実を胸に刻むこと、教えるとは希望をともに語り合うこと。教育にかかわる定義はいろいろとあるかもしれない、しかしこのような理念を持って教師は教育に望んでほしいと願うのは私だけだろうか。
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by ayabemorinaga | 2009-05-26 08:44 | その他 | Comments(0)

教育技術

教育もどのような教材教具を使って教えれば、児童がしっかりと理解できるのか。もちろん児童の発達段階に即した、さらに成長には順序があることも考慮すること。たとえば這えばたて、たてば歩めの親子ごろといわれているとおり、たった後這うこともなければ、歩くようになったあとで立つということはない。ことも考えながら、私は小学校では、国語、算数の二教科と道徳をしっかりと教えることが基本中の基本であり教育技術がもっとも問われるところである。あえて言えば小学校教師は教えるための技術者でなければならないと思っているのは私だけだろうか。道徳を教える場合は、どのような教材を使えば児童が価値の葛藤をしながら考えるようになるのか、教師の指導技術に大きくゆだねられている。さらに算数で言えば、どのような半具体物を使って教えるのか。たとえば、お道具箱の棒を使って,2十3=5を指導するとき、--11十111=11111 足すのであるから、棒を加えて、数えれば5になる。しかし、引き算の場合は、5-2=3の時は11111一11=111この場合、まず棒二本を取り除き、五本の棒から二つ棒をとらなければならない。これを児童にわかりやすく説明するのに、どのようにするかかなりの指導技術が必要である。とかくこのようにごく簡単なことを、どのように理解を深めていく指導をするのかは、教師の教育技術に頼るしかない。教師は指導技術をどのように磨いていくのか。研究授業で得られた指導技術を実践することが大切ではないのか。教師は往々にしてプライドがあるのか、研究授業ですばらしい技術を学んでおりながら、決してそのことをまねて実践をするということはかたくなにしない(この感覚は今から50年前のことですから間違っているかもしれません)人が多くおられた。今こそ少人数学級である教師はあらゆる機会を通じて教育技術を磨き、わかりやすい授業実践を心がけ保護者からの信頼される教師になっていただきたい。と思う昨今であります。ご意見がございましたらぜひお願いします。失礼の段がありましたらお許しを
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by ayabemorinaga | 2009-05-24 09:56 | その他 | Comments(0)

把持と忘却

忘却とは、忘れ去ることなり、忘れ得ずして忘却を願う心の哀しさよ。菊田一夫のラジオドラマ、君の名は、放送がある時間帯は、女湯が空っぽになるとまで言われ,一斉を風靡した物語の冒頭の言葉ですが、それはさておき、忘却とは、学習の結果が忘れられることを意味しており、大体学習によって記憶した事柄は一日で半分は忘れてしまうといわれています。一ヶ月もたてば記憶された三十分の一ほどしか記憶が残っていない。忘れないようにするには、過学習といって、一定の事柄を覚える(把持)のに要した時間の倍かけて記憶をすれば、忘却することが極端に少なくなるとか、学生が試験勉強を徹夜でするなど言われていますが、覚えたら寝るのが忘却するのが遅くなります。徹夜をしても覚える量より忘れる量のほうが多くなる。覚えるには、何か意味づけて覚えるのがよい。特に年号などは、期末試験の時間割等がありますが、同じ日に社会、国語などを組み合わせるのは如何なものか。似たような記憶をするのは、記憶に混乱が起こる。だから数学と国語、社会と理科、などの組み合わせをするのが大事である。学校現場で教務主任などは学習心理学に基づいて時間割を組んでおられるとは思いますが、現実はどのようになっているのでしょうか。
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by ayabemorinaga | 2009-05-23 14:25 | その他 | Comments(0)

寛容

人の上に立つものは、寛容の精神が必要である。些細なことに目くじら立てて失敗をとがめるような狭量さでは人はついてこない。現代の人間関係は昔に比べてかなりドライになっている。しかし人は誰でも、出来れば自分を理解してくれる上役の下で働きたいと思っている。まず、相手を理解しその気持ちや長所を大切にしてやること、人の情緒を触発すること、これが部下のやる気を引き出すことにつながるものである。ひとの長所を認めるということはなかなか難しい、欠点はすぐ目につくものですが、欠点には目を瞑りそれぞれの人として長所を出来るだけ見つける努力をすることが管理職の仕事ではないのか。勤務評定に欠点ばかりをあげつらわれるのではたまったものではないし、そんな上司にめぐり合わせたものは不幸としか言いようがない。それも昔であれば書類であったり申し送りであったりして時がたてば悪い事柄も、記憶から消えてしまうのですが、今はコンピュ-タに一度欠点が書き込まれれば永遠に消えることがない。誰かが消してくれればよいが。不幸な時代である。と人事管理者がふと漏らした言葉が忘れられない。どのような職場でも、上に立つものは、寛容の精神をしっかりと肝に銘じ、人それぞれのいい面をしっかりと見ることの努力を重ねて、対処していただきたいと、考えるのは私だけだろうか。
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by ayabemorinaga | 2009-05-22 15:54 | Comments(0)

一人前

言語学者であった岸田先生に学生時代に教わったことでありますが、教師が一人前といわれるようになるには、授業中に間違ったことを教え、間違いを生徒から指摘されたときに、うまくごまかすことが出来れば教師として一人前である。と、具体的なたとえは言われなかったのですが、私が、中上林小学校時代の研究授業のときに、授業は算数で対象学年は四年生でしたが、先生が板書で計算ミスをされました。すると児童が目ざとく見つけて、先生計算が間違っていると得意満面で指摘しました。授業参観している私たちは、さて、どのように返答されるかなと、興味津々でありましたが、先生はうろたえもせず、うん-君はすばらしいよく見つけたね、先生は誰が間違いを見つけるか、わざと間違って書いたのだよ。と答えられました。ウ-ンなるほどこれが一人前の教師かと感心をしたものです。さて、議員としての一人前と評価されるには、端的に言って、何を持って一人前と有権者の皆様方に認められるのでしょうか。
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by ayabemorinaga | 2009-05-20 09:39 | その他 | Comments(0)

懺悔

これも小学校の教諭時代の苦い経験ですが、道徳の時間(昭和三十年代の道徳は学校教育の全面の中で指導するという立場こどもたちの学校生活の中から問題を見つけて指導する)に座席かえについて話し合う中で、何でも思っていることを話しなさいと指示したとたんに、ある児童の容貌にかかわることを指摘して、よくもこれだけ人のことが言えるなと思うほど、徹底してあげつらいその子と一緒に座席に座るのはいやだと公然と言い張るのです。そのことを指摘された子供がしまいに泣きだし子供心に深い傷を負わせたことに、教師としての未熟さと慙愧の念にさいなまれたものでした。さらに、教師としての無能を深く反省させられました。その場はとりあえず私が児童に謝り、クラスの児童には自分の責任でないこと(背が低い、容貌、色が黒い色がしろい等等、これは我が家のことですが、当時中学二年の息子が家内に口答えをしたものですから、思わずチビのくせにえらそうなことを言わないといったとたん、息子が背が低いのは僕の責任かと反論して、家内が返答に困まり「ごめん」と謝っていましたが)は決して言わないことを指導して終わりました。何でも言いなさいといえば、小学校五年生ぐらいでは、相手の立場を考えずにずけずけとものを言います。何でも自由に言い合い、お互いに理解しあう中で、席を同じうするという指導の観点は、ものの見事に外れてしまいました。まず何でもいえるというクラスづくりをするためには、相手の立場を理解すること、自分が言われて困ることは人にも言わないといった指導の徹底されていることが大事である。教育の場で特に道徳教育の指導の失敗は許されない。児童の実態をしっかりと把握し、発達段階、児童心理をしっかりと踏まえた指導方法がなされなければならない。私は道徳の時間にこのような失敗をするようでは、小学校の教師としてふさわしくないと考えて、高校教師に転任いたしましたが、小学校教師として不適任なものが、高校教師が務まるのかとご指摘されれば、返事のしょうがありませんが。このような恥ずかしい、取り返しのつかない失敗も致しましたが、私としては教師をしてよかったという思いは変わりませんが、今もなお、時折このことを思いだすたびに、心が痛み無念の思いがよみがえります。
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by ayabemorinaga | 2009-05-19 10:25 | その他 | Comments(0)

批判力

私が小学校の教諭の時、五年生を担任していたが、親から、子供が漫画本を読んで勉強しないので、先生からしっかりと注意してほしいと頼まれたことがあった。授業中に机の中を開けさせてみると、ほとんどの子供が漫画本を持っていた。休みの時間はお互いに交換をして漫画本を読みふけっている。読むなといって指導してもだめだろうと考えて、漫画本にたいして批判力を養うことが大切だと考えた。漫画に対する批判力とは漫画はよい悪いといったことを理解するのでなく、漫画はすじが同じで面白くないといった考え、さらに、漫画の内容については民主的、人権尊重,健康といった観点からよい、悪い、つまらない矛盾があるといった批判が出来るようになることが重要である。児童に批判力を養わせるためには、子供の思考形成の中に積極的に入る指導が大切で゜あるそのためには考えながら読ませること、すなわち問題発見的な読み方をさせることである。なぜこんなことを持ち出したのかといいますと、現在国民は政治に対して、しっかりとした批判力を持たずにマスコミ報道を鵜呑みにして行動しているのではなかろうかと、危惧されるようなことが多いい。世論に考えもなく付和雷同しているのではなかろうか。国民はマスコミ報道をしっかりと批判できる力をもっていなければならない、マスコミは世論をある方向に誘導しょうとしていないか、どうか、さらには真実かどうか。マスコミに対する批判力と、情報選択能力を身につけることが、今緊喫の課題ではないかと思うのは、私だけだろうか
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by ayabemorinaga | 2009-05-18 19:32 | その他 | Comments(0)