綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

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やすらぎ

心のやすらぎというのは魅力的である。心の安らぐ場所、心の安らぎを与えてくれる人、それらを誰しもも求めているのではないか。その場所にいるだけで何かほっとした気持ちになる。あるいは、その人の傍にいると、別に何を話すとか何もないけれど、心が安らいでくる。このような人場所を持っている人は、どんなに幸福だろうか。安らぎということを人々が求めているのは、日常生活にいかにそれが少ないかを意味している。忙しいを連発して生きている人なんと多いことか。歳をとれば忙しくない生活の中で老人たちは、安らぎを感じているであろうか。遠いい昔にさかのぼれば、一杯をやる直前のなんとなく心が落ち着きホットとした安らぎを感じたものである。心の安らぎのある生活をしたいものである。と誰しも思っているが、人それぞれであり毎日不満ばかりを募らせて生活するのも哀れなものである。心の持ち方が悪い、何事もプラス思考で考えなければと、しかしかなしいかなかなわぬ夢を追い求めて、心の飢餓から抜け出していきたいとあがいているのだろうか。私も目前のさまざまな現象に世の行く末を慮り、心みだれ心の飢餓から、安らぎと救いを求めてさ迷い、観るも哀れな精神状態に陥っている。癒しの否安らぎの場所はいずこにあるのだろうか。
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by ayabemorinaga | 2009-07-29 15:16 | その他 | Comments(0)

刷り込み

芭蕉は、人間や自然を,哀憐をもって眺める心から流れ出したものが、おのずから句になる。それが最高の句の境地である。と日ごろから言っていたそうだ。どうも私は、短歌、俳句は苦手である。自然や人間への鋭い感性が養われていないようだ。哀憐という感性が。幼児の時の感性の刷り込みに問題があったのか。この刷り込みということについては、オ-ストリアの動物学者コンラートローレンツが刷り込みといわれる概念を動物生態学の中に導入した。ローレンツは雁の雛が卵から孵って目を開いた時に、その前で動くものについて歩くという実験をした。普通、卵から孵った雛がすぐ目にするのは母親のお尻である。だから母親について歩くのだががローレンツは雛の前で自分の長靴を動かして見せた。その結果雛が長靴を履いて歩くローレンツ後をびろぞろ歩き始めた。と言う。私たちは生まれて最初に目に入ったものは何であったのだろうか。いまだ知る良しもない。しかし、今振り返って、生まれてから最初に目にしたものは何であったのか。また、最初にどのような音を聴いたのだろうか。私の記憶には何も残っていないのか。それとも忘れてしまったのか。私の最初の刷り込みは何であったか。最初に目にしたものは光であったかもしれない。最初に聴いた音は何だったのだろうか。母親の声か。皆様方は、最初に何を観、どんな音を聴かれましたか。幼児には最初にどのような刷り込みが大切なのだろうか。
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by ayabemorinaga | 2009-07-28 06:41 | その他 | Comments(0)

人を受け入れる度量があって、初めて人の欠点を責めることが出来る。そうすると人もその責めを受け入れてくれる。人を受け入れる度量のない人は人の欠点を責めることは出来ない。というのは、人もまたその責めを受け付けないからだ。人物評価の観点として、度量のある人か、器量のある人か、といった点を見逃してはならない。どのような批判も受け入れることが出来るような、大きな度量を持たなければならないということか゜わかっていても、人間ちょとやそっとで素直に耳を傾けることはしない。そんな人は人の欠点を人前で言いふらすことは出来ない。何事もわかっていても実践となると、講釈どおりには行かないのが人の情けない性だ。このことが出来るためには、人間どこまで、自分を無に出来るかにかかわっているのだ。人が耳を貸さないのは相手が頑固だから出なく、自分が頑固であるということがわかっていないのだ。何でも悪いのは人のせいにする人がいかに多いことか。自分の日ごろの行動を ふと立ち止まって静かに反省してみよ。いかに自分中心でしか物ごとを考えことができずに人に迷惑をかけて、行動している恥ずかしい自分がいることを。ひとかどのことを申し上げていますが、じゃ-あなたはどうなの--とはおっしゃらないでしょうね。
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by ayabemorinaga | 2009-07-26 16:50 | その他 | Comments(0)

日暮れて道遠し

道遠という当時珍しい名前の子供がいたので、名前の由来を知っているのかと尋ねたら、その子供曰く。日暮れて道遠し後悔しないためにも、しっかりと若いうちから励めという思いを込めて命名されたと聴いています。と。その子供が今どのような人生を送っているのかは知らない。人の一生は二十歳から三十歳まではちょうど日の出の太陽のようなものだ。四十歳から六十歳までは日中の太陽のようだ。大業を成就するのはこの時代である。七十歳から八十歳になると、体力、気力は衰え、まさに沈もうとする太陽のようで、何事もなすことが出来ない、といわれているが、私は体力は若い者にかなわないが、気力だけは意気軒昂若い者に負けないとやせ我慢といわれようが持っているつもりだ。若い人は若いときに一心に勉めいそしんで、大業を成就せよ。年老いてから日暮れて道遠しと嘆くことがないように。古より古人が述べていることは体験に基づいているから、その言葉は重い。しかし
なかなか知っておりながらも実践できないのが哀しい人間の性だ。人生は二度と来ないのだということを痛感しない限り酔生夢死のように時を過ごしていても何も感じないのだ。若いときにこそ、しっかりとした志をたて、年老いてからしまったもっと大きな志を持って人生を生きるべきであったと後悔しても、日くれて道遠しと嘆くことになる。時間を大切に大きな夢を持って、二度訪れることのない人生をそれぞれに精一杯生きていただきたい。念ずれば花開くの言葉もあるではないか。若者よ。
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by ayabemorinaga | 2009-07-25 10:14 | その他 | Comments(0)
優れた人物は現在の地位,使命を自覚し、それを果たすべく力を尽くし、それ以外のことは考えない。優れた人物は地位に拘泥せず、上の人の欠けたところがあれば、黙って補い,事がスムーズに運ぶよう取り計らうだけである。俺がしかるべき地位についたら-----と力む人は、所詮自己顕示欲の強い人であって、人をまとめて引っ張っていくことは出来ない。知られなくてもよい、知られてもよい。そんなことに頓着なく、静かに自分の務めを果たすのみである。自分が自分が--と思う限り、人を押しのける対象になる。とかくこの世は難しい。人ほど不可解なものはない。疑いだせばきりがない。されど頼りになるのも人である。信頼を裏切られ人間不信になりながらも、やはり人様にお世話にならなければならない。あれやこれやの気遣いはもえうたくさんといいたくなる。愚痴を言いながらも、また、人様に助けを求めている。世の中をなんの糸瓜と思えどもブラリとして暮らされもせず。といわれているが、、所詮心も持ち方次第で幸せにもなれば不幸にもなる。そんなことはいまさらいわれなくとも知っていると思いながらもどうしてどうして、自分で自分の心がつかめていない。自分は何者なのかと心静かに振り返ってみれば、偉そうなことをほざいて人様に迷惑をかけている自分の姿を。自分の面子にこだわりわがままなことを言っている自分を。つつましやかに、自分の内面を見渡せば、哀しいかな自分のことしか考えていない自分のうらぶれた貧しい姿が、浮かんでくる。そしてもっともらしい理屈をつけて正義を気取っている自分を。これも人様のためだと考えて人の迷惑も顧みずいい言いたい放題声高に叫んでいる醜い自分の姿を。物心ともにゆたかにとは程遠いい、反省をしなければならない数日間であった。
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by ayabemorinaga | 2009-07-24 14:28 | その他 | Comments(0)

書物

若いときは経験豊かな人のように熟慮し手落ちのないように工夫すべきだ。歳をとってからは、若者の元気、挑戦意欲をなお持つように心がけよう。歳をとるにつれてこのような感慨ひとしおである。若いときになにことをなすにも、経験豊かな人のごとく熟慮しただろうか。私などは熟慮なんかより、行動のほうが早くて失敗ぱかりの連続であった。さらには歳をとるにつれて些細なことに意気消沈をし取り越し苦労の連続だ。挑戦意欲を持つていても、体がついていかない。そんな時こそ、から元気でもいい何事にも敢然と挑戦する意欲だけは失わないようにしたいものだ。若き諸君、友をえらばば書を読みてといわれるごとく、人生の指針をもとめよき書にふれて、豊かな実り多いい人生を希望に輝きしっかりと生きてほしい。若者に、夢と希望の満ち溢れた世の中にするのも政治家の責任であるが。
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by ayabemorinaga | 2009-07-23 07:45 | その他 | Comments(0)

内観

独座し内観するとき気づくのは、自分の中にある人間の弱さである。人間はなかなか自分の非を認めない。必ず原因を他に求めようとする。自分は罪なき被害者であって自分の不幸は全部他人のせいだとしたい。自分がうまくいかないのは不幸な星の下に生まれたからだと思いたい。成功している連中は、ただ押しが強くあつかましいだけだ。自分は才能はあるが、内気で、自己宣伝することを潔しとしないだけだ。そう思いながら自分の惰性、不始末、努力不足のことを棚にあげてしまっている。そうでなく、原因は自分だ。他人に責任転嫁すれば堂堂めぐりをするばかりで、決して解決しない。すべては自分から始まっているのだということに気がつかなければいけないのだ。このことを今の国政の場で執行される衆議院議員選挙に当てはめてみると、来る八月三十日に落選した議員は自分がどのような努力を日ごろから行っていたかの反省はさておき、全部党執行部の責任に転化したり、マスコミのせいにするようなことと類似しているのではなかろうか。そのことはさておき、この機会にあえて言いたい、有権者の皆様方、しっかりと自分の考えで投票していただきたい。まず少年には夢を、成人には希望を、老人には安心を、このことをしっかりと実現させてくれること。そして、自分たちの毎日の生活が安全安心て゛、後顧の憂いのない生活を保障してくれるのは。といった観点からいずれ発表されるマニフェストをしっかりと検証をして清き有権者の一票を投ずべきではないでしょうか。マスコミに踊らされて、風のふくまま気の向くままに投票をしないでほしいと願っているのは、私だけだろうか。
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by ayabemorinaga | 2009-07-22 06:43 | その他 | Comments(0)

克己

礼にかなっていなければ視てはならない。礼にかなっていなければ聴いてはならない。礼にかなっていなければ言ってはならない。礼にかなっていなければ行ってはならない。視、言,聴、動、の四つを慎むことが克己の方法である。と孔子は言っている。心は外界の事象に対応して動いている。裏切り、落とし穴など邪悪な外界に引きずり回されて、心が乱れるのはどうすることも出来ない。ならば心を乱すもととなる邪悪なものを見ないことにする。生き馬の目を抜くような実社会で、出し抜かれず、だまされず、蹴落とさず、揚げ足を取られないように立ち居振舞うためには、自分もまたずるく賢く生きなければいけないのだ。生身の人間が俗世間に伍して生きていくためには、自分の身を汚さなければ生きていけない。孔子の言うように邪悪のものからめをそらせば、食い物にされるだけだ。そうならないために、目をサラのように見開き、あらゆる情報に耳を傾け、すばやく敵の意図を察知しなければならない。孔子の言っていることは弱者の論理である。と反論したくなるが、果たしてそうであろうか。今の国政の場の様子をマスコミを通じて視聴きすることを、つつしみ克己を実践すれば、どのような事態になるのか。日和見主義とののしられるのか。見たくないものは見ず聴きたくないものは聴かなければ、心が騒ぐことも乱れることもない。今はあまりにも視たくもない聞きたくもないことばかりが国政の場から聞こえてくる。克己だといっているような事態ではない。心乱れようとも、子々孫々のために、決然たって対処せよ。と叫びたい。
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by ayabemorinaga | 2009-07-21 07:09 | その他 | Comments(0)

老人

老人が不幸である社会はけっして万人が幸福な社会ではありえない。老人になって感じることは、人間が社会的存在であるという実感である。老人の不幸という中には社会からの疎外感がありはしないか。年を取ってから数十年間に渡って、孤独や寂寞の中に生きなければならない社会というものは、けっして, ヒュ-マニズムに恵まれた社会とはいえないのではなかろうか。清水寺の今はなき元大西良慶管長は長寿の秘訣は嫌な奴には遭わないことだ。といわれていたという。確かに嫌な奴に遭うとついつい憎まれ口の一つも言いたくなる。そうすれば相手も黙っていないので、つい感情を高ぶらせて激論となってしまう。そんなことをして何一つよい結果は生まれないので、その日一日気分を害し健康を損ねる結果となる。嫌な奴には遭わない。これもそれなりの理屈が通る。歳を取ればついつい気が短くなって、つまらぬことにこざわり、一言要らぬことを言ったりして、相手の感情を害することが多い。物言えば唇寒し、だ。老人が不幸と感じるような社会は決して作ってはいけない。自分のことだと実感されて強調しなさんなと、いわれるかもしれないが、そのように思われる方もやがては歳をとり老人になられるのですよ。老人が不幸と感ぜず、ゆたかな老後が保障された安心感のある、社会の構築を目指すべきではないでしょうか。そんな感じがする昨今です。
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by ayabemorinaga | 2009-07-19 12:33 | その他 | Comments(0)

いかに生きるか

アメリカでは、心を病む人が急増しているとか。日本も例外ではない。心を病む人が増えて、セラピストや精神科医を頼る傾向が強くなっている。その背景にあるのは、社会、家庭の分裂によって生じた連帯感の喪失ではないだろうか。誰もが寂しく、誰もが悲しい。だが、その孤独を感じてくれる者はどこにもいない。人は皆それぞれにパ-フエクトワールドを持っている。そのパーフエクトワールドに向かって、毎日毎日を傷つき挫折を繰り返しながら生きているのが人生なのだ。そこには、愛、悲しみ、喜び、感動があるはずだ。それを忘れて、ただ人生を消化試合のように過ごしている人がなんと多いことか。生きる喜びを見失い、ただ自虐的に、さいなみ苦しむ人生なんてつまらないではないか。やれ連帯感の喪失だ、孤独を感じてくれる人がいないなど愚痴をこぼす前に、自らがじゃ私が連帯感のある社会を目指して努力をしようと、立ち上がることではないか。そんなたくましい心を持っていればいいが、、そんなたくましさがないから悩み苦しむのだよ。そりゃそうだなおっしゃるとおりだ。だけとも神は私に何をさせるために、この世に使わされたのかということをじっくりかんがえてみてくれ。自分の出来ることが必ずあるさ。たった、一度きりきりの人生ではないか。希望を持って生きようよ。この世に生を受けたのだ。心に太陽を、人生なんて最初から不如意なのだ。如意吉祥を目指してたくましくいきよぅよ。悩むことが出来るのも生きているからではないか。自分だけが苦しいのだと思っているから余計に苦しむのだよ。誰も言葉に出しはしないが苦しんでいるのだよ。人生は不如意。この言葉をかみ締めてこの人生の並木道をボチボチと歩もうではないか。
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by ayabemorinaga | 2009-07-18 08:43 | その他 | Comments(0)