綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

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求めすぎるな

世の中は踊り子ににている。踊り子はしばらくの間、誰とでも踊ってくれる。これは,エジブ卜のことわざである。長い人生の内で,よかったと思える期間が五年あれば,幸せな人生を送れた人と言えよう。それが十年もあれば希有な幸福な人生を送れた人といっても過言でなかろう。いや-もっともっと長きにわたって幸せな人生を送っている人がいる。外から見れば,そのように見えるかも知れないが,内情はもう少し複雑なだろう。しかし,今の若者は苦労知らずも度が過ぎる。たとえば今の若奥様達は,絶えず夫や世の中が永久に自分とともに踊ってくれるとおもっている。ここで踊るとはもてはやしてくれるという意味である。だから少しでも自分の思うとおりにならないと,世間が間違っている。会社が悪い。自分の個性生かしてくれないと言ってひがむ。人生は不如意であることを知らなければならないのだ。如意ではない。ままならないのが世の中なのだ。そうだ私が人生は不如意だといったら,先生の意のごとくなる世の中だったら恐ろしいわ-といって女性教師からからかわれたことがあった。しかし,世間でも会社でも自分に応じてくれる時は必ずある。ただそれは踊り子のようなもので自分の人生をすべて踊ってくれることはあり得ない。それはほんのしばらくの間であることを自覚して求めすぎることがないように心がけることが肝腎゛ある。ところが、欲に目がくらめば自分が求めすぎていることさえわからなくなるから恐ろしいのだ。何であれ求めすぎると言うことは,自分のためにはならないと言うことを知ることだ。
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by ayabemorinaga | 2012-08-31 18:47 | 教育・学校 | Comments(0)

身辺歳時

昨日は,午後から座禅のため西来寺の明鏡塾に参加することで、明鏡止水のごとき境地に到達する。嘘つけ-ってですか。そのような見たようなことはおっしゃいますな。お坊さんでも夏は暑いので座禅はされないそうです。が,明鏡塾では座禅が行われました。セミの声をきき,水の流れる音に耳を澄ます,複式呼吸をしながら、ただただ瞑想に身を任せる。一点の曇りもなき境地に到達する。と、人の心の動きが手に取るように見えてくる。座禅の醍醐味か-人間界を離れて天人のすむという世界に心を遊ばせる。---なんとオバ-な表現よ。でしょうな。誰でもこの文を読めば感じられることでしょう。曇った心を座禅で洗濯をして--心を取り戻し、夜は,創立120周年記念募金カッドウ地区協力委員の会合に出席する。いろんなご意見をお聞きすることができた。最後になってから-みんなが募金に心から協力できるような趣意書を作っていただきたいと要望された。形式にとらわれた趣意書でなく募金をされる方がよしゃ-募金に協力しょう--と思われるような趣意書をつくれということである。これぁ-どいれいことになったわい--そのうえに-私も文章つくりは好きなんですよ--なんて追い打ちをかけられたわ--これゃ-明鏡止水なんて境地はどこかにすっとんていったよ--のごとく一日でも天と地の差がある。おもろいな-人生はと開き直り、頼まれもしない趣意書づくり-がんばらなくちゃ-そんな身辺歳時--今日は少し趣向を変えました。おもしろくも何ともないって-でしょうな--
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by ayabemorinaga | 2012-08-30 11:04 | 教育・学校 | Comments(0)

夫婦

夫婦である以上、愛や信頼、理解、尊敬といった者で結ばれるのは当然である。しかし、夫婦となった以上は、表向きのきれい事ではすまず、さらに一歩踏み込んで、汚さの結びつきが必要である。お釈迦様が外面菩薩、内心夜叉という女性のすさまじい本性を洞察したことばがある。たとえ夫婦になったとしても、やはり女性の本性というものは出てくる。そこまでふれあわない限り真に夫婦とは言えまい。男も、本質的に卑怯者で,ケチで,内弁慶で,権威に弱く,といった具合で無限に欠陥をもっている。そのようなお互いの醜さや汚さを出さないつきあいはそれはインチキのつきあいに過ぎない。一つ屋根の下で長年連れ添っていれば、おのずと人間としてやむを得ず持っている汚い側面が見えるものだ。きれいなものと、汚いものも同時に見せ合い,それらがぶつかり合って,しかも許し合えるという立場。この許し合える立場を持たなければ,夫婦関係は破滅につながっていく。そのはかない関係の上に愛情をはぐくんでいくのが夫婦という立場。なの-人間は本来哀しい存在なのだ。夫婦はこの哀しみを共有することでこそ、つながっていくのだ。なんて-偉そうなこと-何でまた、今日は,夫婦なの-何となくかんがえこんでしまってさ--夫婦て何だろうてっな--
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by ayabemorinaga | 2012-08-28 11:21 | 教育・学校 | Comments(0)
職場では、上役が部下を大変かわいがる。しかし、その可愛がり方には、能力を認めている場合と、ただよく言われる存在意義をみとめて、という場合があることにきずくべきである。昔の流行歌にあった。そばにいてくれるだけでいい。という存在だ。ところがこのそばにいてくれるだけでいいと思われている存在が、上役は自分の能力を高く評価してくれているのだ。と勘違いすることがある。そばにいてくれるだけでいい。という考え方で自分が信頼されていると思ったら、その枠の中だけで満足すべきである。余計なことを考えたり、高望みをすると厳しいしっぺい返しを食う。そのことをよく考えて行動をすることである。能力でも評価されたいとおもうなら、ただ上の言うことをはいはいと聞いているだけでなく、こういうことはこうしたらよいと思います。と批判なり、あるひは諫言する勇気を持ち合わせていることが大事だ。しかし、上役も人間かなしいかな、おべんちゃら-を言うやつをかわいがると言った人のほうがおおいだろう。変な諫言でもすれば、人事でしっぺい返しを食らうことになるから、上役の度量を見て諫言することが肝要である。つまり、その人間の器を見極めると言うことが必要なのだ。言いたいことは、人間を見抜く眼力を養えと言うこと。肝っ玉の小さい上役の下で働くことになったら、徹底して面従腹背を実行することだ。そして、人事の時に、希望を出して、そんな度量のない上役の下からさっさと離れることだ。上役も多くの人から嫌われていると思ったら少しは反省するだろう。ほんの少しな。
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by ayabemorinaga | 2012-08-26 11:59 | 教育・学校 | Comments(0)

下克上

戦国時代に横行した考え方に、下克上というのがある。これは、下が上を乗り越える。という考え方だ。そして、具体的には、君、君たらざれば、臣、臣たらず。と主張した。上が上らしくしなければ、部下も部下らしくしない。とういケツまくりの論理である。そのために戦国時代は、主人が部下を選ぶ。ということでなく、部下が主人を選ぶ。という時代であった。現代社会組織で、下克上といわれるような、ケツまくりの論理を実践するような、元気者が教育界にはいないのか。みんなヒラメのごとく上ばかり見てきょろきょろしている教師ではなく真実一路自分の信念に基づいて教育を実践する豪快な人物はいないか。この間も、教師達との飲み会で、教育委員会の意向ばかり気にするような管理職ではだめだ。教育委員会に向かって堂々と意見を述べるような管理職になれと発破をかけておいたが、さて、どんなものかな。下克上--が実践できる度胸のある管理職があらわれることを期待する。
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by ayabemorinaga | 2012-08-24 10:46 | 教育・学校 | Comments(0)

なれ合い

あいつは、いつもひとのあらを探したり、重箱の隅をほじくってばかりいる。自分のことを振り返らないで、他人ばかり攻めている。といわれるタイプの人間がいますね。えてして、このタイプの人間は孤立して、嫌われますね。組織には必ず組織の論理がありますね。組織の論理が悪い方に働くとおかゆになってしまう。つまり、なれ合いですよ。なれ合いが悪いことだと思っても誰もそのことを口にしない。そんなことを口にすれば組織からはじき出され、阻害されてしまうからだ。既成のなれ合いの論理に身をまかせてしまう。これでは組織内の改革変革はおぼつかない。組織内の合意を生む機関が会議である。この会議がなれ合いの象徴的なものになっては終わりだ。会議とは、自分の全知全能を傾けて、言葉による戦いを行う場だ。したがつて、なれ合いや、他人の意見にすぐ同調する様な者は会議に出席する資格がないと心得よ。いや、資格がない。これも一昔前のお話ですが、私が教育委員の時に、厳しい意見を述べたことが再三あった。それはなれ合いからの打破を目指しての発言であったが、その代わり随分と嫌われ、敬遠をされたことを思い出す。ほかの委員は、事務局提案を鵜呑みにして、意見も言わずイエスマンのような人が多数派であった。教育委員会の委員は教育の発展向上を目指して、それこそ全知全能を尽くして議論すべきである。会議がなれ合いにむなっては、地域住民の信頼に応える教育委員会になり得ることはない。会議からなれ合いを排除することが必要ではないか。
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by ayabemorinaga | 2012-08-18 17:08 | 教育・学校 | Comments(0)

嫌いな人から学べ

職場には必ず、知で生きる人、と、情で生きる人、二つのタイプがある。知出生きる人は、知力で物事を判断する。情で生きる人は、自分の心に受けたインパクトで判断する。従って情で生きる人は、あの人が好きか嫌いかということも判断基準になる。組織における仕事の判断は、何をやっているか。という内容か、何のためにそういうことをするのか。という目的によって判断されるべきである。ところがなかなかそうはいかない。やはり人間には感情があるからだ。だから、時には、おれはあいつが嫌いだ。だからあいつのやっていることがいかに正しく立派でも、俺は認めない。という判断を下す人がいる。このような人は、何をやっているかが問題でなく、誰がやっているかが問題なのだ。という。人間関係が判断基準だと言うことになる。毎日職場で顔を合わせて、本当にいやなやっだなと思う人でも、必ず学べるところがある。ということが、組織は 誰がやっているかではなく、何をやっているかが大切になってくる。いやなやつでも反面教師として学べば大いに参考になるところがありますよ。いやなやつほど自ら進んで学ぶという姿勢が大切ですね。とは簡単に言えますが--実行するには相当の腹構えが必要ですね。いやなやつにこそ多く接して多く学ぶいいことですね。しかし、心の底からやなやつもいますね。あからさまに感情むき出しで議論をふっかけてくるような--。そんな人にはどうすればいいのでしぅか。そんな人こそ大事にすることですね。案外いい人かも知れませんからね。
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by ayabemorinaga | 2012-08-17 17:35 | 教育・学校 | Comments(0)

君臨すれど

君臨すれど統治せず、という言葉がある。その言わんとするところは、支配をするが、細かいことは部下に任せる。とゆうことであるが、これがなかなか難しい。長という立場にある人が行うべきは、選択肢の中から一つ選び出す(決断)である。他のことはすべて部下に任せる。ところがこれができない上役がわんさといる。部下のやることにいちいち口を挟む。自分がいかなる情報も知っていなければ気が済まない人もいる。組織にはそれぞれのセクションがある。外部の人たちもすぐに、組織のトップに苦情を言ったりすることが多いい。そのような苦情を聞いたトップは、自分で請け負うのではなく、そのことについては、それぞれ専門の部署に言ってください。とはっきりと言うべきである。しかし、いろんな苦情・要望を言ってこられるのは自分が市民に信頼されているからだと、勘違いしているお天気な組織のトップもいる。そんな組織の下で働く人たちこそいい迷惑である。命令に従う部下でなく、考える部下を養成することが組織のトップの仕事と心得るべきではないだろうか。賢明なトップはそうせい-と部下に任せるだけの度胸とふところの深さがなければ、部下は真剣に働くことはできないのではないか。組織の長を目指す人は、組織の原則についてしっかりと研鑽すべきである。と私は考える。あなたは、どうだったの--といった意地の悪い質問はご勘弁願いたい。反省を込めて、時には、懺悔の証として書いていることが多いのですから。-
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by ayabemorinaga | 2012-08-14 09:38 | 教育・学校 | Comments(0)

納得

現代社会の組織で、いきなり新しい仕事や、理由のわからない仕事を部下に言いつければ、部下は疑問をもって聞く。なぜこの仕事を私がやらなければならないノですか。と。このように聞かれたら上司は相手を納得させなければいけない。が往々にして納得のいくせっめいをするよりも強引に上からの命令である。といって有無を言わさず押しつける様な上役が多くいる。そして、命令を聞かなかったときには、組織からはじき飛ばしたり、生涯うだつが上がらない嫌がらせをする輩がいる。こんなのが教育のなかでもはびこっている。そんなことがないと言うことであれば実例を持って示すことができる自信はある。いや-やはり納得のいく説明をすることが親切であり、やる気を起こさせることになる。納得をさせるには、次のようなせっめいをてっていすることである。なぜと言うことに対しては、このような目的があるからだと目的をはっきりと告げること。二つ目は、君のやってくれる仕事は、この目的に対してこのような貢献度・寄与度があるという。そして、成し遂げた仕事に対しては、このような信賞必罰を行うと評価を示す。このようなことを言っても納得をしない相手には、無理に仕事を押しつけないことだ。このような場合に、頭のいい人は、できない理由を延々と述べる人が多いこともじじつですね。何事も納得尽くでする仕事こそ成果が上がるものである。故に丁寧なせっめいをすることも大事ではないだろうか。そういえば教職時代に、理解と協力をお願いしたら納得と了解が必要だと反論されることがあったな。それではあなたも部下の理解を得るせっめいが不十分でしたね。それなら、偉そうに言えた義理ではありませんね。そのとおり--といわざるを得ないか。でもね。物わかりの悪い部下もいるでしょうが--いくら説明しても納得をしないような-
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by ayabemorinaga | 2012-08-12 08:43 | 教育・学校 | Comments(0)

王道

王道を行け--子曰わく、利に放りて行えば、恨み多し---利益ばかり求めるような行動をしていると、恨みを招くことが多い。古人はすばらしいことを言っている。まさにその通りであろうな。中国古代の政治思想に、王道と覇道の二つがあった。王道というのは、仁や徳を持って行う政治のことであり、覇道というのは、権謀術策によって行う自己中心の政治のことである。王道を行う人を王者といい、覇道を行う人を覇者という。どのような職場にもこの二つのタイプがありますね。自分の利益を考えずに、能力のある者を発見しつつ、組織目的のよりよい完成を目指す職員、または社員のことであり、覇者はそうでなく、自分の立身出世ばかり考えて、権謀術策を巡らしては、他人を次々と陥れる様な職員、社員、が。いかなる職場でもこの王道が行き渡ることこそ真実世界の実現である。ところが、残念なことに、悪いやつほどよく眠るの言葉通り、覇者が横行するのが現実の世界である。いますね、どこの社会にも自分の利益損得ばかり考えて行動する人たちがうようよするほど、それを排除するためには、王道を行おうとする人は結束して、権謀術策を巡らす輩を排除していくことである。不祥事が出るような組織は必ずといっていいほど覇者が横行している組織であることは間違いない事実であるだろう。王道が行き渡るような世の中であることを祈るばかりだ。ところでいっも説教調デモの申されていますが、あなたは自分の人生を振り返っていつも王道を歩んでおられましたか--とおっしゃりたいでしょうな。まあ-私のことです、時には王道らしき道を歩んだこともあり、覇道へと舵を切ったりいろいろでしたよ。まあ-母校で勤務しているときに、ある教師に対抗して王道を心がけたことがあります。このとは後日に--
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by ayabemorinaga | 2012-08-09 12:54 | 教育・学校 | Comments(0)