綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

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体罰

学校教育法第11条 校長および教員は、教育上必要があるときは、監督官庁の定めるところにより、学生・生徒・児童に懲戒を加え事がいできる。ただし体罰を加えることはできない。と規定している。そのことに関して通達や判例が示されているが、殴打のような暴力行為は、仮に教育上必要な懲戒行為としても、それだからといって犯罪成立の違法性は阻却されない。という大阪高裁判例がある。教師は体罰を加えてはいけないことは充分承知理解している。しかし、クラブ活動等に於いて体罰が絶えないのはなぜか。クラブ活動で゛は体罰を加えることで生徒の意識技能が向上すると言う認識が教師にある。だからといって私は体罰を容認しているのではない。決してあってはならないことである。教師の体質として、体罰、暴力問題・教育に関わることについて、部外者が知りもせずに口を挟むなという潜在意識があることは残念である。批判を謙虚に受け入れると言った姿勢が見られないことがある。そのくせ責任をしっかりと取るという姿勢は皆無だ。いたずらにいいわけをして逃げ回っているような場合がある。責任のある立場の人は出所進退を決断すべきではないか.開き直り相手に言いがかりをつけるような姿勢は見苦しい限りだ。今回の桜宮高校で起きたクラブ活動での体罰により生徒が自ら尊い命を絶つと言う痛ましい事件は残念の極みであり言葉もない。何十発も殴打するなんて常軌逸脱しているとしかいいようがない。体罰でなく暴力行為そのものであ。心からご冥福をお祈りしたい。そのことに関連しておもいだすことがある。福田赳夫内閣の時に、テロリストの要求に屈して日本人の人質解放のために、日本に拘留されていてるテロリストを超法規手段により釈放したことがあった。そのとき福田内閣総理大臣は、人命は地球より重いと苦渋の決断をされ釈放された。そうだ、人の命は何ものにも代え難く尊いものである。命を軽んじる様な行為は決してあってはならないことだ。桜宮高校問題を考える時に、尊い人命が体罰で奪われた事の重大さをしっかりと認識をして、そのような観点視点から、今後の学校から体罰を無くするための議論を深めていただきたい。人命尊重が欠落した議論であってはならない。
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by ayabemorinaga | 2013-01-27 12:42 | 教育・学校 | Comments(0)

教育行政の中立性

教育委員会は、教育行政の中立性と公共性の確保のために、できうる限り独立の地位が与えられる必要がある.そのような視点から地方教育行政の組織および運営に関する法律第二十三条に定められている職務権限事項については、地方公共団体の長から独立してこれを執行できるものとしている.このことを踏まえて教育委員会の地方公共団体の長から独立していると言った議論が為されるが、果たして現実はどうなのか.一応形の上では独立している体裁を整えているが、独立なんてできっこない.地方公共団体の長が教育委員の人事権と予算権を握られていて、首長の意向に反するような決定などとうていできない。そぅりゃ-昭和23年7月15日に施行された教育委員会法(旧法)であれば、まさに、地方公共団体の長から完全独立して教育行政を執行する事ができた。なぜなら-教育委員は住民の選挙によって選任された.さらに予算編成権も教育委員会が把握していた。この制度であるときはまさに、教育行政の中立性と公平性は維持できる。現行の法律では、中立も独立もあり得ない。否、旧法の教育委員会制度にも欠陥があったとかんがえられる.教育委員会の権限があまりにもつょくて地方公共団体との間で齟齬をきたし運営に問題があったとも考えられる。または、特定政党が推薦する教育委員の選出により教育の中立性が損なわれるような事例があっての法改正があったとも考えられるが--そのことはさておき現行法では地方公共団体の長の意向に逆らうことなどできないと私は考えている。地方公共団体の長からの独立性など叫んでもむなしく聞こえるばかり---教育行政に首長が介入しすぎるという様な報道を見聞きするが、ならばこの機会に
-教育行政の中立性と公共性の確保、さらに首長から独立を保持するには、どのように法改正をすべきかを論ずるのが緊急の課題ではないのか--現行法でも運営の方法で充分できると言う意見のある方は--是非お聞かせいただきたい。私は自分経験則に基づき無理であると断言したい。要は、教育行政の中立性と公共性の確保と首長からの独立をした教育行政の確立のためにの教育委員会制度はいかにあるべきかの法改正について議論することが喫緊の課題である。
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by ayabemorinaga | 2013-01-25 10:58 | 教育・学校 | Comments(0)

落首

江戸時代の落首に、世の中は左様でござる、ごもっとも、なんとござるか、しかと存ぜず-というのがある.世の中は左様でござる、みな付和雷同する.何でもわかっておるのかと思うとそうではない.何かちょっと圧力をかけれられるとじきに、ごもっとも、で参ってしまう。こんな奴らは何を考えているのかと、なんとござるかと突っ込んだら、しかと存ぜず。と逃げてしまう.そんな人がいますよね.赤信号みんなで渡れば怖くない.とか何とか言って渡ってしまう輩が--ところが信念を持ってやっているのかと思えば--警察が圧力をかけて、逮捕するぞ-と言えば-ごもっともごもっとも--皆参ってしまう。どのような心構えでやっているのかと突っ込めば、しかと存ぜず--しっかりとした考えを持ってやっているわけではありませんからどうかご勘弁を--なんていう人が--文明が発達すればするほど、人間的な味のある人がいなくなっていくようだ.人間的な深さがあり-どこか潤いのある--そんな人がいなくなった。だんだん利口になって頭の回転は素早いが、何を考えているのかわからない人が増えてきた。いや-考えていることはただ一つ利害得失だけであると言うことが見え見えだ。もっとわからないように味のある出し方ができないものか。骨太の背筋にしっかりとした背骨が一本通っている人間になれませんかな--皆の衆-落首で揶揄されるような世の中であってほしいとは思わないよな--皆の衆
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by ayabemorinaga | 2013-01-19 14:04 | 教育・学校 | Comments(0)

邪見

邪見について教職員からさんざんいじめられた苦い経験がある。日の丸と君が代について(国旗と言わずにわざわざ日の丸と言っていた)入学式に際して、国旗を掲揚し、国家を斉唱せよ。と言う府教委の方針に対して行政の末端である校長は現場の教職員の説得に苦労した。府教委はなんとしても現場の教職員を説得し納得させ理解を得るために最善の努力をせよとの内命である。日の丸は戦争の旗だ。いや帝国主義の象徴だ.君が代なんてけしからん。あれは封建的な独裁者に対する奴隷的な服従を表す物である.とか。君が代なんて言うけれども、我が世でもあるのに君が代とはなんだ。千代に八千代にさざれ石の巌となりて---そんなばかなことがあるか、さざれ石が巌になるか、非科学的も甚だしい。なんて議論をしてくる。それは端から見れば己の邪心を表現しているに過ぎない。憲法に保障されている思想信条の自由は認める。憲法が認める自由とは国家が国民に保障していると言うこと。どのような思想信条、を持っていようとそのことを理由に国家権力が個人に弾圧を加えないと言うことである。学校の式典には君が代を斉唱せよと言えば、内心の自由の侵害だ--など随分いじめられた物だ。そんな議論は邪見だよ話にならんと一蹴したら、どのように反論されただろうか.心凍らせるような議論の集中抗議を受けただろうな--みのりのないおぞましい議論に多くの時間を費やしてたことが--ほろ苦い思いでとなってよみがえる.遠い遠い昔のこよなく懐かしい教職時代の物語なの--
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by ayabemorinaga | 2013-01-14 11:35 | 教育・学校 | Comments(0)

見濁五見

人間は他の動物と違って、だんだん大脳が発達して物を考える様になっていった.そこから思惟、思考という物が発達する。これを見という。これに五濁がある。物の見方考え方に五つの汚れがある.その一つ目は、我見、人間は虚心坦懐に無心に成って考えられない性がある。つまらない我執に執着して物を見る事すなわち我見。次が辺見物を子細に観察しない、一面一辺をとってじきにに結論を出す。つまり一辺倒なのです。その一辺を見てのみあれはだめだとか、これはいけないとか言うのは辺見という.三つ目が、邪見。よこしまな心ねじけた心を持って物をかんがえること.この頃この邪見の徒が多いですね.私なども教職時代はこの邪見の徒にさんざん苦しめられましたよ。何に苦しンだのですってか.このことはまた機会に書きましょう.四っ目が見取見。これは今日の言葉でいうとイデオロギ—の誤りである.一つの先入観、一つのイデオロギ-にこだわって、すべてをその型にはめていこうという、マルキシズムとか何何イズ厶というものである.何でも理屈をつける.自分の主義理論というものにこだわって、その型にはめて見ていこうという見取見。左翼的な思想家などの言うことは、判子で押したように決まり切っている。    五っ目が 戒禁取見本当の真理がわからないで、無闇やたらと形式的タブ-ばかり振り回す。こうしてはいけない、ああしてはいけないと、やたらに、べからをやる。つまり機械的形式的独断的な考え方、いわゆる教条主義を振り回すこと。 以上のような物の見方を見濁五見と言う。皆さんはそんな見方にとらわれていませんかな---どんな見方にとらわれようと自由だよあんたに説教されたくないわ---でも一度ぐらい自分の考え方は正しいのだろうかと自省する謙虚さがあって人は成長する。偉そうなことをまたご丁寧に-案外、自分の考えは正しいと思っているから頑固に主張する物ですね、哀れかな人間は。謙虚になることも時には---あんたの言っていることも辺見だわ--と言われれば天に向かっていうことなし。
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by ayabemorinaga | 2013-01-13 10:48 | 教育・学校 | Comments(0)

本当の人間

人間とはなんぞや-本当の人間とはこの世に生を受けた以上は世の中に対して何らかの役割を演じなければ成らない故に、一つの器でありますが、器人であって器物になってはおしまいだ。何が言いたいのかと言えば、本当の人間はつぶしがきかなければならない.つぶしがきかぬ人間というのはこまったものである。あいつはつぶしがきくとか聞かぬとかいわれる.つぶしがきかないと言われる人は、おうおうにして融通が利かない.応用が利かない.こんなのがたくさんいますや--融通の利かない頑固物が-それを自分は正しい美徳と勘違いしているから始末に負えない。このような人間は堕落している.生を失っている親父とおなじで実に始末の悪いもので、文句ばかりいっている。馘にったら最後使うところがないなど言われないように、今のうちから融通無碍の術を体得されたし。いやいや本当の人間とはをじっくりと沈思黙考されるがよし---頑固を雪解け水にさらりと流して--頑固とは融通のきくことなのだよ--融通がきくことは頑固なんだよ--世の中器用な人間ばかりがあふれかえって、本当の人間がいなくなったよ--
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by ayabemorinaga | 2013-01-12 10:32 | 教育・学校 | Comments(0)

理想像

期待される人間像(池田内閣が提唱)は個人として民族として家族として、社会人として、それぞれ理想的な人間像の要素を箇条書きにして提示しょうとした.それは結構であるが、血の通った人間像、理想像ではない.要するに、説明、開設、理論、知識にすぎない.しかし、教育現場では賛美され実践につとめたものだ.しかし考えてみると、理想像、人間像というものは、必ず誰かに感激し、私淑するということでなければだめなのだ。書物に書かれた者では役に立たない.子どもを教育しょうと思ったら子どもに理想像を持たせな成らない.昔から、みかん、きんかん、酒の燗、親の言うこと子が聞かん.と言うことわざ゜がある.説明、理論、知識などというもので片づくなら昔から親父一人で十分である。(今はそんな親父も見たことないが)況んや学校の先生などというのは、小学校から大学までいくらでもいるんだから
、その人に教わればみんな偉くなりそうなものだが、そのように成っていないのは、血が通った教育が行われていないからです。(よくゆうわあんたも教師の端くれでしょうが。わかっていますて。)なにより子どもが言わず語らずに敬慕するような人物、とにかく頭を下げたくなるような先生、そのような生身の人間がいないとだめである.昔から大業を果たしたひとかどの人物は血の通った理想像、人間像を持っている。安倍内閣も是非そのような教育改革と血の通った教師の養成はいかにあるべきか---という施策を提言していただきたい。文言でごまかすことなく--子どもが心から敬慕でき頭を下げたくなるような教師の養成を願う。否、教師達よ血の通った、敬慕される教師たるべく日々研鑚と実践への真摯な努力を傾注されよ。自身を反省すれば、このような大言壮語などとてもできませんがね。深く反省して真実を吐露しているのだ。わかってくれる。
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by ayabemorinaga | 2013-01-06 12:58 | 教育・学校 | Comments(0)

気力

気力が旺盛であると言うことが個人的にも民族的にも最も大事な事で気力を弱くしてしまったら、教養が多少有ろうが、頭脳知性が優れていようが、技能が発達していようが問題ではない。気力というものが一番大事で根本的なものである。気力が旺盛であれば少々の欠点欠陥など苦にすることもない。どんなに長所があっても、たとえば知性だ、技能だ、教養があったとて気力が旺盛でなければ個人も国家も発展しない。現在日本民族は気力も持っているのか。気力を失いかけていないか。だとしたら、気力を回復しなければならぬ。これが指導者の責任である。いや、政治の責任ではないか。我々が日常生活のなかで気力を持てやる気を起こさせる政治を今年は期待したい。年頭所感。これでは辛口が足らぬか。
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by ayabemorinaga | 2013-01-04 12:01 | 教育・学校 | Comments(0)

新春

謹賀新年  近年まれにみるおだやかな元旦の春日 温かい日の光が窓辺に注ぐ 今年も皆様にはよいお年であることをこ祈念申し上げます。 皆様に読んでいただいておりますブログも今年は少し辛口で辛辣に書いてみたいと思っています。また、ブログ小説に挑戦いたしますので、是非お読みください。             平成25年元旦 
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by ayabemorinaga | 2013-01-01 11:12 | その他 | Comments(0)