綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

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嫌みな男

いやな奴とも思われても我慢が出来る。しかし、嫌みな奴とは金輪際言われたくない。なぜか、嫌みな奴は自信過剰であったり、うぬぼれやであったり、慇懃無礼だ。他人の気持ちを逆撫でして喜んでいる。さらに嫌みな奴は、追い打ちを掛けて、言わなくてもいいことを口にし、やらなくてもいいことをこれ見よがしと、わざわざ見せつける。相手が傷ついたり不愉快になる事は承知の上であるから始末に負えないし悪意がある。また、出過ぎる人間も本人にそのつもりが無くても嫌みな奴になる。.嫌みな奴と言われないために時には、周囲に迎合してもかえって嫌みになりかねぬ。ごますりもお世辞も一つ間違えれば嫌みになるし、へりくだりも度が過ぎると嫌みになる。とかく世間を嫌みな男と言われずに渡るには一苦労だ。いやな奴でもいっこうにかまわぬが、嫌みな奴とは、言われないように心得てすでに遅いかも知れぬが生きていこうか。あんた、知るまいが世間では、はやくからいやな奴であり嫌みな男と毛嫌いされているぜ。--そうだろうな。うすうす気づいてはいたのだが、やはりそうなのか。
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by ayabemorinaga | 2013-09-29 16:27 | 教育・学校 | Comments(0)

批判

批判なければ進歩なし。この考えたかに異論はない。しかし、批判をするには事実をしっかりと確かめてからすべきであり、かりそめにも伝聞に基づく批判は愚の骨頂である.さらに批判のための批判が多くないか.現実を直視して建設的な批判でなければ意味はない.これがなかなか出来なくて、即ち事態を批判し否定することは案外激しいものである.議論の場において相手をやっつけたりけなしたりする事に夢中になり、ではどうすればよいのかと言った現実対策としての建設的な意見は出ない.批判的精神は、社会そのももの前進から会社ないしは、一つの事柄の改善のためも不可欠なものである事に異論はない。しかし、批判はどこまでも建設的な批判徹底すべきであって批判のための批判であるならば、必然的に現実から遊離して一種の観念的空論に終わることを知るべきである。そしてそのとき、言葉や文字としては、如何に激しい表現が為されても結果としては現実のままで何らしんぽも前進も見られないひさんな事態が有るのみである.そのことをしっかりと踏まえた批判でなければ批判ではないただ個人の不満をひはんにすり替えて爆発させているに過ぎぬ。しかし、我々はこのような批判に陥りやすい。心すべきか。
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by ayabemorinaga | 2013-09-27 19:25 | 教育・学校 | Comments(0)

潮どき

潮目が変わる.潮どきなどと言われることがあるが、潮どきをしるとはひとつの事をとり組むに当たって、その時期の遅速の判断を誤らぬと言う事であろう。なせ潮どきが大切かと言えば、ある事にとり組むことが如何にいいことであっても、もし時期が早すぎたら必ず失敗をすると言う事です.勿論遅すぎてもダメであることは申すまでもないことですが--如何に立派なことでいいことであっても早すぎてはダメである。と言う事は誰で経験則として会得するものである。。ことことで分かるように、潮どきを知る。しおどきを誤らぬ。ということはものごにとり組むときに成功するか失敗するかの瀬戸際である。潮どきをしっかりと見定める事が出来れば次に考えなければならぬ事は、手の打ち方である。物事をとり組むに当たってそのやり方を誤ったらその取り組みは見事に失敗をする事になる。手の打ち方に因ってはこれまで賛成してくれていた人がばらばらになって着いてこなくなってしまう。そうなればすべてが水泡に帰してしまう。結果をしっかりと見通すことが出来無ければ物事にとり組む資格はないと言わなければならぬ。予想外の展開にあたふたと慌てふためきてきぱきと判断が出来ぬようではとり組まぬのにかぎる。人は誰でも先が無いような事態に追い込まれれば、誰だって悲観的になる.深刻に眉根を寄せ青ざめ、弱気なことを口にするようになる.それでもそのそこには、決して失われずにフツフツと沸き立ってくるエネルギ-がかってはあったが、そのようなエネルギ〜もいまや失せようとしている。
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by ayabemorinaga | 2013-09-26 08:45 | 教育・学校 | Comments(0)

幸せ

随分昔の話になりますが、自治会の役員をしている頃小学校で挨拶をしなければなりませんでした.さて、何を話せば小学生が理解してくれるか.一瞬迷いましたが、三つの幸せについて、話しました.一番目はやってもらう幸せです.皆さんが赤ちゃんの時、おなかがすけば泣いたし、おむつが濡れれば泣きました.すると、お母さんが飛んできて、おっぱいを含ましたり、おむつを替えてくれました.みんな幸せでした.これがやってもらう幸せです.二番目は、自分でできる様になる幸せです。字が書けるようになった、一人で自転車に乗れるようになった、サッカ—がうまくなった。これが出来る幸せです。何でも自分ができる様になると、偉くなったような気がして嬉しいものです.三番目は、人にしてあげる幸せです。人がしてほしいことをしてあげれば喜ばれますね。そんな人は頼りにされます。してあげる幸せは三つの幸せの中でも最高の幸せです。さあ、皆さんも、やってもらう幸せから、出来る幸せへ進みそして、してあげる幸せを味わえる人になってください。----当時の物部小学校の生徒の皆さんはしっかりと私の話をきいて、社会で人から頼りになる人として尊敬される、してあげる幸せを実践してくれているだろうか。
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by ayabemorinaga | 2013-09-25 08:40 | 教育・学校 | Comments(0)

報恩

私たちは、諸々のものや、人に支えられて生きている.自分生かされているのでなく自分で生きていると言う人もいるだろう。それは正に傲慢である。我々は生かされているという自覚こそ大切であり、そのことに気付いたとき、感謝の心が芽生えるのだ.感謝の気持ちを報恩として形に表してこそ本物である.それは何か。布施とも言われるし、また、寄付であろう。もう少し豊になったら布施も寄付も出来るのだがという人がいる.経済的余裕があるから布施や寄付をするのでなく、感謝報恩の気持ちを形に表したいと想うから、布施や寄付をするのだ。人間は弱い.物事に執着する.私欲を捨て去る格好の修養が布施であり寄付なのだ。布施や寄付で執着を超えるのだ。ものへの執着をきっぱりと断ち切れ.出来るかな--難しいだろう.報恩の気持ちを持てばできることだろう.執着というドロドロとした魑魅朦朧のような妖怪地じみたお化けような執念を 断捨離--よって清らかな報恩の清輝がわき起こる。
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by ayabemorinaga | 2013-09-24 12:14 | 教育・学校 | Comments(0)

知識・知恵

知慧のある人間かどうかは、現在まだ起こっていない将来の出来事に対して、どの程度、見通しがきくかどうかによつてけんとうがつくものである.つまりことが起こってからなら、誰だって分かるわけであり、起こってしまってからではすでに遅い。もし、事前に見通しがついてしたとしたらそれは如何に有利でありかつ役に立つことでしょう.これが知慧であり、学校で教わるところの知識とはことなるものである.学校の優等生が世の中の優等生になるとはかぎらない.学校の成績なんて、概して暗記力の強い者が、よい点を取る仕組みになっているだけだ.つまり世の中の真剣勝負はその人が学校でどの程度のことを習ったかと言うことでなく、自分がとり組んでいる実際問題に対して、その人がどれほどまで先の見通しがきくのか、そのことが重要なのである。知識より知慧がその知慧と言えば問題解決に当たってしっかりとした見通しをたてると言うことである。知識なんてうっぺらな大脳皮質にすぎぬ.人間知慧が大事だ。問題解決の先がしっかりと見通せる知慧を養うことだ.目先の判断ではそのときは成功すると確信しても後から考えればとんでもないしっぱいである事が多い.人間知慧を働かして誤りのない政、さらには施策を策定することだ。しかし、目先の事でしか物事が考えられない人や、問題を問題であると認識できない人、将来起こるであろう先の見通しが出来ない知識はあっても知慧のない人が---存在し幅を利かせる世の中にならぬ事を願う者なり。
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by ayabemorinaga | 2013-09-23 09:36 | 教育・学校 | Comments(0)

尊敬

社会の高齢化が急速に進んでいる.日本は男女とも世界の長寿国になり、現実に高齢者社会にすでに踏み込んでいる.そういった状況を背景にして、高齢者について出てくる議論と言えば、高齢者に対する福祉の社会負担をどうするのか、高齢者対策としての医療機関の整備をどうするのか、さらにボケ老人や寝たきり老人の介護をどうするのか、と言ったことばかりである。そのそこには高齢者は社会に取って迷惑と言った空気さえ漂っている.と言えば根性が曲がっていると言われるかな.高齢者がその人生を通して社会に貢献してきたことに対して、どのように報いていくのか。という敬意を基盤にした議論はきわめて希薄である.と言わなければならない.なぜか.日本の社会に村落共同体的なものが残っている時期は高齢者は掛け値なしに敬意を払われた.高齢者の経験が貴重だったからである。現代は高度にハイテク化した社会では経験はあまり重要でなくなった.あなた高齢者に対して若者の尊敬の念が薄れたことを慨嘆しているの---先生先生と威張るな先生先生生徒のなれの果て--若者もいずれは高齢者になるのだぞ--因果応報って事もあるぞよ--敬老の日もおもてなしの心で---何がいいたいの--そんなこと言わずに分かってくれよ。若者から一言  高齢者のみなさん-あなたたちの年金は私たちが支えいることも忘れないでね。
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by ayabemorinaga | 2013-09-21 19:00 | 教育・学校 | Comments(0)

困った人達

目先のことに一喜一憂してちょこまかとうごきまわり、だが、いざとなると何も出来なくて立ち往生をしてしまう者、あるいはしたの者の不平不満の尻馬に乗って中間管理職を突き上げ英雄気取りでいる者。それいじょうに多いのは、上司の顔色ばかりうかがい、その尻ぬぐいを部下に押しつけて平気な者そんなのか職場の中には必ずいるものだ。こんな輩はどうすればいいのか。そんな人間をあつめてしっかりと研修をすることことだ。しかし、研修ぐらいでそんな輩の精神を鍛え直すことは困難だろう。どこかの寺でしっかりと精神修養をさせることだ.それでもダメであればどうすればいいのだ。そんなことは知らぬ。
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by ayabemorinaga | 2013-09-20 11:26 | 教育・学校 | Comments(0)

惻隠の心

雨に濡れてぶるぶる震えている子がいる。親にはぐれてしくしく泣いている子がいる。そのような子どもを見て、ああかわいそうにと不憫に想う。惻隠の心である.そういった心は人間誰しも持っている。が最近はそのような心さえ抱かない人が多くなってきた。只ひたすら自分さえよければ人のことなどかまっていられるか。そのような自分勝手な人があまりにも多いいではないか。 惻隠の情を持った人がだんだん少なくなっている。
なぜか、人間教育がおろそかにされている。いや、某教育長に道徳教育をしっかりとやってくれ、と頼んだら道徳教育に私は違和感がある、と否定的な考えを言った。これはとてもダメだわ.そんなことを頼む方がばからしくなる.かって教育長であった人がそのような考えでは、表面上の心の教育しか為されていない。教える側が仕方なくやっている心の教育では子どもの心を感動させないし、価値の葛藤さえもない、そんな道徳教育が学校でやらされていると言った感覚で教師が教えていては、惻隠の情など子どもの心に育つわけがない。人間誰しももっているであろう惻隠の情をしっかりと幼いときから子どものこころに育ててくれ。先生達よ。いやすべての大人達よ.まずは子どもに模範を示してくれ。あなたは、勿論私も--
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by ayabemorinaga | 2013-09-17 07:32 | 教育・学校 | Comments(0)

自分の意見をもて

私は、自分の意見を持たないと言うことは恥ずかしいことである。と考えている.日本はアメリカの風下に立つ国でもなければ、中国の意のままに動く国でもない.自らの意見を持って行動する国であってほしい.自分に意見があるように、相手国にも意見がある。それを説得して調整することが、人と人との関係であり国と国との関係である。人間は神様でないから計算外とか想定外の事態に出合うことは否定できない.自分の意見はしっかりと持っていても、人の話を聞く、人の意見を聞くということは、自らをむなしくして聞く野でなければ意味はない。はじめから先入観を持って聞くなら、聞かない方がよい.自分の意見は持っていても、相手の意見をしっかりと聞く事である。自分の意見がすべて正しいと想うことはおこがましい限りだ。
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by ayabemorinaga | 2013-09-16 10:16 | 教育・学校 | Comments(0)