綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

瞑想

瞑想の一種に内観と言われるものがある。自分の内面を深く掘り下げていき、大いなる気づきをいただく方法で、浄土真宗には昔から有る修業方法だ。内観道場では一週間、テレビも観なければ新聞も見ない。外界からの刺激をいっさい遮断して朝六時からよる九時までひたすら瞑想する。内観は三つのことを中心に振り返る。一つ目はしてもらったこと。二つ目はそれに対して返したこと。三つ目は迷惑をかけたこと。私も一度内観道場で瞑想をしてみたいと思っています。場所は栃木県塩谷郡喜連川町。森内内観研修所です。よろしければ皆様もどうぞ。内観は宝の山を掘り当てたような喜びをブレゼントしてくれるそうです。
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# by ayabemorinaga | 2008-09-04 07:00 | その他 | Comments(0)

聖フランシスコの祈り

「主よ、私をあなたの平安の道具としてお使い下さい。憎しみのあるところに愛を、いさかいのあるところに許しを、分裂のあるところに一致を、疑惑のあるところに信仰を、偽りのあるところに真理を、絶望のあるところに希望を,闇に光りを、悲しみのあるところに喜びをもたらすものとして下さい。慰められるより理解することを、愛されるより愛することを私が求めますように。」私はこの中に、キリスト教のエッセンスを見、こころが洗われる思いが致しました。キリストの教えは仏教とことなってわかりやすいと思うのは私だけでしょうか。
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# by ayabemorinaga | 2008-09-02 11:41 | その他 | Comments(0)

ルサンチマン

ルサンチマンというのは、我が国でいえば、さしずめ怨念、祟りというものにあたる。反感といえるかもしれません。ニ-チェによると,弱い者が強い者に対して抱く嫉妬の感情、権力者に対する権力なき者、富める者にたいする貧しき者、強き者に対する弱き者たちの反感と怨念即ちルサンチマンが一つの社会勢力になって、フランス革命も発生した。怨念の社会化が宗教運動を興し、革命の引き金になっている。しかし、日本ではたたりの感情怨念というものは一つの大きな勢力へと社会化されることはなかった。それぞれの時代の政治家は腐心し、そのための様々な装置を作りだしてきた。その代表的なものが神社でした。非業の死を遂げた英雄たちをみんな神社の奥殿に祭り上げてしまった。北野天満宮はその代表的象徴です。祟りを鎮める鎮魂の儀礼。これの豪華なのが比叡山であり、高野山です。しかし中には、小泉八雲のいなむらの火の物語のように民衆を救った人を生き神さんとして神社を建てて祭ったと言う例も有ります。
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# by ayabemorinaga | 2008-09-02 09:15 | その他 | Comments(0)

涙定量、汗無限

人が一生のうちに流す涙の量は、学歴、財産、地位等に関係なく一定量だから、若いころ涙を流した人は、大人になってから泣くことはなくなります。一方、若い頃涙を流さなかった人は、壮年や老年になって難局に遭うことが多く、涙を流すことになるのです。また、汗無限とは、流した汗の量に比例して、物事を処理する能力が増大することを意味します。世間で名をなした人は、必ず青少年時代に刻苦勉励、積極的に汗を流した人なのです。という解釈もできますが、自分の人生経験の中から、涙定量、汗無限の意味を考えるのもいいのではないでしょうか。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-31 09:49 | その他 | Comments(0)

言葉

「言葉」と言うものがどれほど大切か。自分のハッする言葉が、自分の人生を創るのだ、と。言葉の根本は思考であります。人間は思考の表現のために言葉を使います。だから言葉をハッするまえの段階に思考が有ります。これを心理学ではインナ-スピ-チ(内言)と言うそうです。言葉とは音声を通じて外に現れたものです。言葉が出る前に必ず思考がある。だから思考を清めると言うことほど大切な事は有りません。   「心にもないことを言いまして」と弁解することが有りますが、あれは、真っ赤なウソであります。と断言していいかどうか。チョト迷いも致しますが。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-30 09:44 | その他 | Comments(0)

マザ-テレサ

私は仏教徒で有りクリスチャンではありませんが、マザ-テレサ
のこのメッセ-ジにはなぜか魂がふるえるような感動を覚えた。「イエスがあなたを愛したように、あなたも隣人を愛しなさい。沈黙の果実は祈りです。祈りの果実は信仰です。信仰の果実は愛です。愛の果実は奉仕です。奉仕の果実は平和です」さらに、さあ、貧しい人の中でも最も貧しい人ぴ゛とに仕えましょう。それがキリストにならう事なのです。「人の為になることに真心を尽くす」生き方をされているマザ-テレサに共感と敬意の念を抱くのみ。そして、愛と奉仕は大げさなことでなくごく日常生活における気づきと実践なのだ。ということを知らされた。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-29 08:36 | その他 | Comments(0)

隋処に主となれ

極東裁判でA級戦犯の中のただ一人文民として死刑に処せられたのが広田弘毅である。彼ははやくからやがては外務大臣と目されていた。いよいよ次期外相は広田弘毅と誰もが疑わない時期がきた。ところが突然オランダ大使に飛ばされた。左遷である。だが広田弘毅は騒がなかった。オランダの日本大使館に赴任すると、テ-マ-を立てて勉強と研究に一生懸命取り組むのである。そのころ読んだ彼の俳句がある。風車、風吹くまで、昼寝かな。与えられた場所がどこであろうと、そこで今なすべきことをキッチリこなしていく、そんな自分の姿勢と生き方を少し距離をおき、これでいいのだと余裕を持って眺めている心境が伺える。昔からの言葉に「隋処に主となれ」というのがある。その場所その場所で自分が中心になると言うことではない。どこに行っても主体性を失わず、自分を鍛えておかなければならない、と言う意味である。広田弘毅は左遷されていた時期にあっても主となっていた。そして、人生の締めくくりである極東裁判の場においても主だった。彼は随処に主となる生き方を貫いた。広田弘毅については、彼をモデルにした城山三郎さんの小説「落日燃ゆ」に詳しい。関心のある方は一読をおすすめする。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-28 05:56 | その他 | Comments(0)

無財の七施

仏教に無財の七施という教えがある。貧しくて何一つ施すものがなくても、なお七つの施すものがあるという。優しいまなざし。ほほえみ。親切な言葉。敬いの態度。おもいやり。席を譲る心。心からのもてなし。人間のすばらしさは決して逆堺に負けないことだ。様々な痛みや哀しみに潰されてしまうのでなく、その痛み、悲しみを通して、逆に人間的に深化し、成長し、ついには新しい世界をつかむ。痛みや悲しみはさけたいことであるが、その痛みや悲しみの中に、実に大きなメッセ-ジ゜が隠されている。だから、人知れぬ痛みや悲しみの中で、ひそやかな声を聞いた人は、大きく天命に目覚め、まったく違う次元に飛翔するのだ。そうなのだとおもいを新たにし人間賛歌を確信したい。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-27 06:31 | その他 | Comments(0)

もう一つの世界

夫が脳溢血で倒れ植物人間となってしまわれた。毎日看護をされている奥さんが、しみじみと「私は夫の看病を通じておおくのことを知りました。この境遇に立ってみて、初めて身にしみることがありました。世の中には悲しみを通さなければ見えてこない世界があるのだということがわかりました」こういう辛い経験を通して、もうひとつ奥の世界があることがわかり、「自分が代わってやれないことの辛さ」「死ぬに死ねない」と思う世界があることがみえたのでしよう。悲しみを通してしか見えてこない世界が世の中には存在する。辛いことだが、その経験を通してどのように生きるべきか。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-20 06:31 | その他 | Comments(0)

しゃぼん玉

しゃぼん玉飛んだ、屋根まで飛んだ、屋根まで飛んで,こわれて消えた、しゃぼん玉消えた、飛ばずに消えた、生まれてすぐに、こわれて消えた、風、風、吹くな、しゃぼん玉飛ばそ----私はこの歌はごく平凡なシャボン玉をとばしている情景かと思っていてたが、そうでなかった。この歌は、童謡作家野口雨情がお嬢さんへの思いを託した歌だったのだ。雨情はなかなか子宝が授からなかった。僕たち夫婦にはもう授からないのかな、半ば諦めかけていたときに、女の子を授かった。八年目の事であった。だからその子を目に入れても痛くないほど可愛がった。ところが雨情が地方公演出かけているとき、二歳になる女の子が伝染病にかかってなくなってしまった。「なんでこんなことななったのか、まだ二歳にもならないというのに---私や家内が何か悪いことをしたというのか」雨情は悲しさを紛らす為に浴びるように酒を飲んだ.酒に酔って哀しみを忘れようとした。酒によって前後不覚になる日が続いた。ところがある日、その子が夢の中に現れて泣いていた。涙の目を見たとき、雨情はっとした。「ああ、このままでは天国にいって娘に会わせる顔がない。お父さんガンバッタよ。哀しみにつぶされなかったよ。おまえの分まで一所懸命生きたといえるようになろう」それが雨情の転機となった。七つの子、青い目の人形、十五夜お月さんなど後世に残る童謡を書き残したとか。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-19 06:46 | その他 | Comments(0)

憤の一字

今はどうか知らないが、東舞鶴高校の校長室に憤と書いた大きな額があった。記憶に間違いがなければ松尾寺の住職の書ではなかったかと思う。墨跡鮮やかに大きな字で憤の一字が書かれていた。言志録、第五条に「憤の一字、これ進学の機関なり。舜何人ぞや、余何人ぞやとは方にこれ憤なり」と佐藤一斎が書いている。その意味は(何をと思う心、つまり発奮する事こそが学問に伸長していく原動力である。孔子の第一の弟子顔淵は、「聖人といわれる舜王も自分と同じ人間ではないか。だったら、やってできないことはない」と自分を励まし、歴史に残るほどの人物になった。これこそ発奮ということである)何事にも発奮をして取り組めばできないことはない。人間なにくそと発奮する事が偉大な事を成し遂げていく原動力になるのだ。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-18 06:56 | その他 | Comments(0)

立志

森信三先生は、人間が志しを立てると言うことは、いわばロ-ソクに火を点ずるようなものだといわれる。「ロ-ソクは火をつけられて初めて光りを放つ。同様に人間もまた志を立てて初めて真価が現れる。志が立っていない人間は如何に才能があろうとも、結局酔生夢死の人生を送ってしまうのだ」と手厳しいが、けれどもこれは、沈思黙考してみる価値のある含蓄の深い言葉である。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-17 08:00 | その他 | Comments(0)

源泉混混

東舞鶴高校の校門の右側に川井尚校長が寄贈された、「源泉混混として、昼夜を舎かず。科に盈ちて而る後進み,四海に放る」の石碑が有ります。ソノ意味は(水はその源からコンコンと湧き出て、昼も夜も休むときがない。しかも流は、窪みが有れば、まずその穴を満たして後、溢れ出て四海まで進む。その様はあたかも根本を内に養って、しかる後活動する人の姿に似ている。)私たちはどうしても効率を求めがちだし、すぐに結果を見たがるものだ。結果を求めて焦っては成らない。内が充実すれば、自ずから外に広がっていく。基礎基本をしっかりと身につけさせる事が教育の重要課題。東舞鶴高校では、古典教育をしっかり取り組めという先輩のメッセ-ジ-なのでしょう。教育の復興には、古典漢文の素読はかかせないと思う。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-16 08:43 | その他 | Comments(0)

和合(その二)

世の中で何か問題が起こると、人を責める風潮がある。しかし、誰も人を責めることはできないのだ。責めるどころかわびなければいけない。いさかいあい、いがみあう世の中をつくっていることにたいして、こちらからさきにわびなければいけないのだ。そうするとき,和み合い、むつみ合う世の中がうまれてくるのだ。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-15 06:26 | その他 | Comments(0)

倖せ

自治会長の時の物部小学校での式辞。三つの倖せ。ひとつめ、ひとになにかしてもらう倖せ。幼い頃に母親に母乳をのませてもらう。ふたつめ、自分で何かができるようになる倖せ。自転車に乗れるようになる倖セ。パソコンが操作できるようになる倖せ。みっつめ、他人に何かしてあげる倖せ。老人に席を譲る。介護をしてあげるなど三つの幸せの中で、三つ目が最も崇高な倖せかも。歳をとれば他人から何かをしてもらわなければ成らなくなる。できるときにはしっかりと人のために行う倖せを忘れないことだ。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-14 06:07 | その他 | Comments(0)

落日

落日に感動する心、ひいては落日信仰というものが、果たして日本人だけの感覚なのでしょうか。日本人の落日信仰を考えるとその歴史的な聖地として大阪の四天王寺が有ります。四天王寺の落日信仰は芝居や様々な文芸作品に取り上げられましたが、その原点に位置スル作品が「弱法師」ではないでしょうか。四天王寺では、春彼岸は真東から太陽が出て真西に沈む日で、その特別の日に西門で念仏を唱えながら極楽往生を勧める法会が行われます。日を拝むので日想観と言います。さてさて、落日が一番美しい場所は、夏場は日本海側、それに対して冬から春にかけての時期は太平洋岸だと言われています。芭蕉の句。「暑き日を海に入れたり最上川」「赤々と日はつれなくも秋の風」芭蕉は落日が一番美しい時期を知っており、奥の細道で日本海側で落日を見る為に旅をしたのではないか。落日の彼方に存在するものが浄土なのでしょうか、それとも極楽なのでしょうか。私も一度夏に落日の美しい場所を求めて感動あふるる旅をしたい。夕焼け小焼けを口ずさみながら。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-13 15:49 | その他 | Comments(0)

游学

一カ所で堤防をきずくと、他日、大雨でも降れば、必ず、下の方の反対側の堤防が決壊する。いくら人力を尽くして、築堤を行ってもいたちごっこだ。とわかった時、漢民族は「水に抵抗しないで、水を自ら流す」という方法を思いついた。つまり、黄河が激した時にできた水路沿って堤防を築いていったのである。水はゆっくりと自ら適くことになり、その姿が快適であるというので游〃自適と表現した。「水に逆らわず、水を遊ばせる」という思想は東洋民族の一つの特徴であり、その水が遊ぶように学問にゆったりと遊び楽しむことから「游学」という言葉が生まれた。治水は、古来どこの國でも大きな政治課題であったし今も大きな課題である。治水など大それた考えを持たず水を遊ばせると言う考えで事に当たるべきか
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# by ayabemorinaga | 2008-08-12 06:08 | その他 | Comments(0)

健康

現実ながい病気をやった者でないと、病人の気持ちは絶対に分からないだろう。だから、私に言わせれば、病気など一度もやったことのない人を健康な人とは決して思わない。本当の健康というのは、病気にかかってそれを克服した人ではないか。「病める貝にのみ真珠は宿る」というアンドレ-フの箴言は、一度、病んでみないと分かりませんネ」 確かにその通りで、吉田兼好は「徒然草」の中で、友人に不適当な人間を七種類あげ、その中に「身強き人」を入れている。あまりにも丈夫な人は友人として不適確だ、と言う意味である。理由は簡単、思いやりがないからだ。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-11 11:12 | その他 | Comments(0)

度量

人は才能があっても度量がなければ、人を包容する事はできない。反対に度量があっても才能がなければ、事を成就する事ができない。でも、才能と度量との二つは兼ね備える事ができないとしたら、むしろ才能を捨てて度量をとりたい「才能より度量を」と言うと、小さいことは問題にしない。豪傑のほうを推奨しているように受け取られるがそうではない。人を包容する事ができる度量があるとは、その人と一緒に仕事をする人が「生かされる」ということであり、そのほうが結果的に何倍も仕事ができることになる。この「人を生かす」という心は、人に対する敬にほかならない。
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# by ayabemorinaga | 2008-08-10 05:37 | その他 | Comments(0)

和合(箴言)

来者迎、去者送、対者和 五五十、一九十、二八十、大絶方処、細入微塵、活殺自在  鹿島神社奉納された額の中にある文句です。「来ル者ハ迎エ、去ル者ハ送リ、対スル者トハ和ス」水の流れる如く、何者にもこだわらぬ態度である。世の中の事がすべて、この通り行けば問題がないが、なかなか、そうはいかない。それは何かというと私心があるからだ。こだわるところがなければ、いかなることも擬滞なく対処できる。「五五十、一九十、二八十」ここが中心の眼目です。十という満数、夫婦でいえば夫婦相和し、という円満な姿に当たる。この十は五と五とお加えても十になるし、一と九ても十、二と八でも十になる。言うなれば夫婦円満の十は夫は妻を愛し、妻は夫を敬う、というような五と五でも達せられるが、相手が何かの心の乱れで、たとえ一であり、二であるような時があっても、こちらがこれにこだわらず、一なら九を足し,二なら八になって補えば、同じように夫婦円満の十なにることができるのだ。私たち悲しいかな、いつもニコニコ笑ってばかりいるわけにはいかない。時にはご機嫌斜めの時もある。そんなとき、「おまえが一ならこっちも一だ」となっては、一プラス一は二で十とはならない。「あなたが二なら、私も二よ」では、これも四にしかならない。相手にこだわり、自分にこだわっているからだ。やはり自分を捨てきって無私となり、相手が一なら、こちらが九になつて補い、相手が二なら八になつて助けてやらないと、夫婦円満の十にはならないのです。このことをおわかりかな皆様方。分かっちゃいるけどやめられない、の歌の文句じゃないけれど、なかなか実行することができませんね。愚かなる者よ人間なんていってみたいけれど、それほど達観(悟り)できている者でもないし、少しづつ少しづつ実践するのみ。文章が長くなりました。ゴメン
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# by ayabemorinaga | 2008-08-08 08:52 | その他 | Comments(1)