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綾部市物部地区在住


by ayabemorinaga

信心・信仰

七十才になれば般若心経を覚えていなければ一人前ではないと言う事を聞いたことがある。神仏を拝む場合には必ず般若心経を唱える。ところで、信仰とは、神仏を信じ崇めることである。たとえば病気になれば、病気を治してくださいと神仏に祈る。病気が直ればますますその神仏を信ずるのが信仰だ。では病気が治らなければ、人は別の神仏を信じ始める。自分の病気を治してくれる神仏が必ず存在すると信じて、--あっちこっちの教団の門をたたく。何も病気に限らず、大学受験、選挙必勝祈願、商売繁盛祈願等等、これらすべてがご利益信仰だ。信仰を持った人は、最初の一二回はうまくいくが、長い人生願いが叶えられないことが多くある。信仰をしている人は願いが叶えられなければ、その神仏、教団から離れていく。これが信仰である。所か゛信心とは、たとえば、病気にって神仏に祈る。しかし、病気が治らない。そのときますます神仏を信じられるのが、信心である。自分の願いがかなえられなくても、その神仏教団から離れない。信仰とは、人間が仏を選ぶ。この神仏はわたくしにご利益を与えてくれるから、だから 私は、この神仏を信仰する。人間が神仏より高いところにいて、あの神仏は役に立つ、此の神仏は役に立たない。ダメだ。人間の傲慢も極まれりと言ったところだ。ところが、信心は、仏が人間を選ぶ。かたちでなされる。私などは、いまだに利益信仰から離れなれない狭い心の持ち主である。鰯の頭も信心からと言われる。まず信心があってこそ信仰が始まるのではないか。何何、今更改まって、信仰・信心このように分けて考えることが必要か。宗教哲学者でもない私か゛--
by ayabemorinaga | 2014-10-13 10:42 | 教育・学校